第326回:流行り歌に寄せて No.131 「涙の連絡船」~昭和40年(1965年)
今回の『涙の連絡船』を書き始めようとして文章の内容を考え始めた時、大変大きな忘れ物をしていたことに気づいた。昭和39年の都はるみの最初の大ヒット曲『アンコ椿は恋の花』について書いていなかったのだ。
d-scoreの年表を参照にさせていただき、丁寧にチェックしていたつもりが、年表には明記されていたものを、私が完全に見落としていたのである。遡って書くことも考えたが、何かとって付けたような感じがするのでそれはせずに、今回の項目で『アンコ椿は恋の花』についても少し触れながら、お話を進めて行こうと思う。何卒ご了承ください。
もう2、3年前の話だが、私の店で、あるスナックのママさんにお連れいただいた70歳がらみの男性のお客さんから「マスター、あんた歌謡曲好きらしいけれど、じゃあ都はるみのデビュー曲知ってるのか?」と質問を受けたことがある。数秒答えをためらっていると、「やっぱ知らねえんだ。まだまだだな。『困るのことョ』だよ、まったく、だから半可通は困るのことョ、な」と断じられた。
都はるみと言えば、即ち市川昭介門下生というイメージが強いが、デビュー曲の『困るのことョ』は遠藤実が作曲をしていて、2曲目の『てれちゃう渡り鳥』からはずっと市川昭介の作曲時代が続く。デビュー3曲目が『アンコ椿は恋の花』。11曲目が『涙の連絡船』である。
都はるみは今日までに5曲のミリオンセラー曲を持つという偉業を遂げているが、その最初の2曲が『アンコ椿は恋の花』と『涙の連絡船』だった。他の3曲は『北の宿から』『大阪しぐれ』『浪花恋しぐれ』。
『アンコ椿は恋の花』と『涙の連絡船』には、船という共通のキーワードがある。前者は東京-大島間を結ぶ東海汽船を言うが、後者に関しては今回調べたところ、同名の松竹映画の内容から鹿児島-桜島を結ぶ連絡船のことを言うようである。ところが、私は50年以上前に聴き出した時から青函連絡船のことを歌っているとばかり思い込んできた。詞の内容が、どうしても北の空を連想させてしまうのだ。
「涙の連絡船」 関沢新一:作詞 市川昭介:作曲 都はるみ:歌
1.
いつも群れ飛ぶ かもめさえ
とうに忘れた 恋なのに
今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が
独りぼっちで 泣いている
忘れられない 私がばかね
連絡船の 着く港
2.
きっとくるよの 気休めは
旅のお方の 口ぐせか
今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が
風の便りを 待てと言う
たった一夜の 思い出なのに
連絡船の 着く港
3.
船はいつかは 帰るけど
待てど戻らぬ 人もあろ
今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が
暗い波間で 泣きじゃくる
泣けばちるちる 涙のつぶが
連絡船の 着く港
都はるみは、この曲で昭和40年の第16回NHK紅白歌合戦初出場を果たす。今回YouTubeでその映像を確認することができた。紅組二番手として登場したのだが、紅組司会の林美智子(白組司会は宮田輝)はまだ緊張が取れておらず、途中つっかえつっかえしながら「紅組で一番若い方です。可愛い可愛い京女です」と都はるみを紹介した。
当時都はるみは17歳、振袖姿での登場だった。司会の林美智子は、その年の春まで放映していたNHK連続テレビ小説『うず潮』の林フミ子役として主演を務めたための抜擢だった。いわゆる朝ドラのヒロインが司会者になった第1号である。
その時、審査員席に着いた緒形拳は、その年のNHK大河ドラマ『太閤記』の豊臣秀吉役として主演し、翌年の同ドラマ『源義経』の武蔵坊弁慶役も決定していた。林美智子26歳、緒形拳28歳の年であった。
現在放映中のNHK連続テレビ小説『ひよっこ』が96作目、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』が56作目を数えることになるが、この年の『うず潮』は4作目、『太閤記』は3作目の作品で、まだまだようやくその存在が定着し始めた頃だと言える。テレビ文化の、ほんの初期の時代である。
話が横道に逸れてしまったが、私が『涙の連絡船』の中で一番好きなフレーズは『忘れられない 私がばかね』の「ばかね」とつぶやくように、半ば諦めるように歌うところである。どなたかが著された本の中でも、まったく同じことが書かれていて「我が意を得たり」と思ったものだが、今いろいろと本をひっくり返してみたけれども、その出典は明らかにはできなかった。
今回の映像でも、17歳で振袖姿の彼女がすでにそのような歌い方をしていて驚き、感心した。もうこの頃から、どのようなことになっても『普通のおばさん』にはなれない宿命だった気さえするのである。
-…つづく
第327回:流行り歌に寄せて No.132 「君といつまでも」~昭和40年(1965年)
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