■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!
第55回:疾走する15歳
第56回:夏休み観察の記
第57回:菅平の風
第58回:嗚呼、巨人軍
第59回:年齢のこと
第60回:「ふりかけ」の時代

■更新予定日:隔週木曜日

第61回:「僕のあだ名を知ってるかい?」の頃

更新日2005/10/20


先日、新聞配達時代の友人Wさんが店を訪れてくれた。約2年ぶりのことだった。持参したのは、今私の店のある自由が丘で、最も話題の洋菓子店Mで購入したケーキが4つ。「食べない? あっ1個でいいの? じゃあ僕が3つ食べるから、ケーキに合うウイスキーください」。相変わらずの彼のテンポに、思わず微笑んでしまった。

彼は高知県の名門高校を出て高田馬場の大学に現役で入り、卒業後は地元に戻って高知新聞の記者をしている、新聞配達仲間ではエリート組。大学時代は高知県出身者の割には酒がからきし弱かったが、さすがに地元に戻り記者連中に鍛えられたのだろう、今ではかなりの酒豪で、甘党辛党のいわゆる両刀遣いになった。

ケーキを頬張りながら、アイラ島のモルトを飲む彼の姿を見て、ふと新聞配達時代の光景を思い出した。あの頃はお互いに18歳、31年前の昭和40年代最後の年の話だ。

同席されていた常連のお客さんが、「マスター、どれくらいの間新聞配達をしていたのですか」とご質問された。「2ヵ月くらいです。しかも僕は集金もなかったので楽なものでした」と答えると、お客さんは、「あれ、そんなものなんですか。僕は何年もされていると思っていた」と驚いた表情をされた。Wさんも、「えー、K君そんなにしかいなかったっけ、いつも専売所にいたような気がするんだけど」。こちらは、もっと意外だという表情。そう言えば、居心地が良くてアルバイトを止めてからもずっと入り浸っていた記憶がある。

前にも何回か書いたが、私たちが配達のアルバイトをしていたのは、西武新宿線井荻駅近くにある「朝日新聞井荻専売所」だった。木造作りの2階建てで、一階が配達準備のための作業場、賄いの食堂、所長家族の住まい、自転車置き場などがあり、二階が住み込みの人たちの部屋になっていた。

私は、近くにアパートを借りていたので「通い」だったが、当時住み込みは6人くらいいただろうか、2階の狭く暗い部屋で生活していた。四畳半か六畳の部屋が、薄いベニヤ板で二つに仕切られていて、文字通り猫の額ほどのスペースしかない。今考えるとかなり劣悪な環境なのだが、当時はみんなそんなものだと思っていたようだ。

新聞配達区は、九つの区に分かれていた。一つの区の平均、朝刊で言えば、「本紙」と呼ばれる朝日新聞が220部から240部くらい、「スポーツ」と呼ばれる日刊スポーツが50部前後、「諸紙」と呼ばれていた東京タイムス、日刊工業新聞、繊研新聞(繊維業界の業界紙)などが合わせて約30部、全部で300部あまりになった。

アルバイトを始めたとき、こんな膨大な件数を憶えられるものかとたじろいだが、業界には業界のツールというものがちゃんとあるものだ。順路帳と呼ばれるB5版を縦に切ったくらいの大きさの用紙を束ねた帳面に、お客さんの名前と新聞の種類がわかりやすく簡潔に書いてある。名前と名前の間には「右入る」「正面左側」「道路に戻り右折」という文字や矢印があって、次に行くべき家を示していた。

最初、専売所の番頭さんに朝夕刊を2日つきあってもらってから、ひとりで回れるようになり、1週間経った時には、順路帳を見ないで配れるようになっていた。当時はまだ脳味噌が柔らかかったのだろう、今同じことができるかと言えば、まったく自信がない。

区により、それぞれ住宅の特徴があって、4階建て(当然エレベータなし)の団地が、10棟を越えるような難所が多い区もあれば、平屋がコンスタントに軒を並べ、テンポよく新聞を投げ入れられる住宅が多い区もあった。私の担当は第9区で、広大な土地で美しいカトリック教会がある私立育英高等専門学校(残念なことに、現在では移転してしまって、その場所にはないらしい)の牧歌的な風景を含む、全区の中で一番広域な面積を持つ配達区だった。

配達員には、いろいろな人たちがいた。Wさんのような大学生もいれば、私や今も親交のあるIさん(現在鹿児島在住の彼も、息子さんを連れ店に来てくれたことがある)のような浪人生もいた。電波学校に通う私と同じ年だった生真面目な苦学生のNさん。色白のお内裏様のような顔をした美少年だったが、今どうしているのだろう。

一切身寄りというものを持たず、独学で慶應の通信を受講し、日曜日は件のカトリック教会に通っていた敬虔なクリスチャンのFさん。その後努力して上智に編入したと聞いた。彼は大学を卒業するまで新聞配達を続けていた。自衛隊上がりのDさん、さっぱりした気性の、良き兄貴的な存在の人だった。女の子に振られるたびに大酒を飲み、いつも電信柱に抱きついて泣いていたSさん、彼は今で言えばフリーターだったのだろう。

当時、自分の部屋にテレビを持てなかった私は、朝夕刊の配達の後、よく専売所で配達仲間と一緒にテレビを観させてもらっていた。「クミコ、君を乗せるのだから」という車のCMを観ながら、「秋吉久美子は本当に可愛いな、俺は絶対ああいう彼女を作るぞ」とIさんが言うと、みんな一様に、「俺も、俺も」と頷き合ったりした。

キンシャサの奇跡と呼ばれた、モハメッド・アリがジョージ・フォアマンを倒したボクシング、ヘビー級タイトル・マッチを観たのも、専売所のテレビだった。クリスチャンのFさん以外は、全員がアリファン。フォアマンがマットに沈むと、みんな一様に雄叫びを挙げ、その後そのまま酒盛りになった。

大騒ぎで酒を飲むみんなの隅で、それでも飲み会にだけは参加し、ひとり無言で酒を呷っていたFさんのつまらなそうな表情が、今でも記憶に残っている。

とにかく私は、予備校にも行かないで、配達仲間とのそういう時間を享受していた。翌年の春、仲間の中の受験生はそれぞれの学校の入学をし、その他の人たちも自分の目標をしっかり達成していた。私は両親に嘆かれながら、二つ目の予備校への入学手続きをすることになる。その時になって、きりぎりすは、実は自分だけだったことに気付くのだ。

 

 

第62回:霜月の記