■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!
第55回:疾走する15歳
第56回:夏休み観察の記
第57回:菅平の風
第58回:嗚呼、巨人軍
第59回:年齢のこと
第60回:「ふりかけ」の時代
第61回:「僕のあだ名を知ってるかい?」の頃

■更新予定日:隔週木曜日

第62回:霜月の記

更新日2005/11/03


ここのところ、店を閉めてホッと一息を付いてカウンターに座っていると、そのまま寝入ってしまうことがよくある。たいがいは1時間半ほどで目が覚めるのだが、疲れが蓄積していて、ずっと眠り続けていることも珍しくない。身体にはよくないとわかっていても、その後30分をかけて自転車に乗っていくのが億劫なのだ。

つい先日もウトウトしていたが、5時少し前だろうか、寒さに気付き目を覚ました。今年は10月になっても暖かい日が続き、あまり季節に思いを寄せていなかったのだが、その冷気で秋が深まっているのを初めて感じた。重い身体を起こして、自転車に乗ろうとしたとき、サドルにうっすらと朝露がついていた。

さっと手で払おうとしたが、思いの外かなりの水分量で、タオルを持ち出して拭き取った。ヒンヤリとした感触が手に残った。これからこの冷たさと付き合っていかなくてはならない季節を迎えたことを知り、少し身構えてしまった。

明けて、霜月。そう言えば、私は浅学で「露」と「霜」の違いがよくわからない。手元にある広辞苑を開いてみた。

つゆ【露】空気が冷えて露点以下に達し、大気中の水蒸気が地物の表面に凝結した水滴。秋の季語。 

しも【霜】多く晴天無風の夜、地表面付近の気温が氷点下になって、空気中の水蒸気が地表や物に接触して昇華し、白色の氷片を形成したもの。冬の季語。

ポイントは、温度にあるらしい。氷点というのは一気圧では摂氏零度のことを言うが、露点は大気中の水蒸気の量によって変化する。その量が多ければ高いし、少なければ低くなる。

露は秋の季語、霜は冬の季語という季節感は、私にも理解できる。さらに、霜の項目に「古人は露の凍ったものと考え」と解き続けているのを見て、昔の人はロマンチックな想像をしていたのだなあと一瞬思ったが、よくよく考えると自分の認識もあまり変わらないことに気がついた。

資料を読んでいくと、私の生まれた今から50年ほど前から30年ほど前までは、東京で初霜が降りるのは、文字通り霜月11月であることが圧倒的に多く、遅くても12月初旬というのが定例であったようだ。ところが、確実に地球は暖かくなってきている。それ以降は12月というのが普通になり、以前はあり得なかった越年の初霜も珍しいことではなくなってきた。

冬の早朝、かじかんだ手に息を吹きかけながら、初霜の降りた道を「サクッ、サクッ」と「ザクッ、ザクッ」のちょうど真ん中ぐらいの音を立てて歩いてゆくときの感触は、最近あまり味わったことがない。やはり、一番思い出されるのは小学校の時の登校での光景だろうか。

小学校といえば、寒冷地の学校に通っていた私は、よく親に、「霜焼けにならないように気をつけなさいよ」と言われ続けていた。考えてみると「霜焼け」というのは、情感のある言葉だ。別に霜が降りることによってやけどをするわけではなく、その季節の異常な低温によってもたらされるいわゆる「凍傷」なのだが、「霜焼け」と書く方が、雰囲気がよく理解できる。

ただ、かの地では情感を味わっている場合ではけっしてないほどの、深刻な身体の大敵なのである。私の小さい頃会っていた老人の世代の人たちの中には、霜焼けで耳を失っている人が何人かいた。手や足が火傷のようになっている人も少なからず知っている。

だから、私たちは厚手の手袋を嵌め、靴下を重ね履きし、飛行機乗りが被るような耳をしっかりと包み込む帽子を被って、学校に通っていた。それだけ重装備をしても、手はかじかみ、足のつま先はしびれるように冷たく、顔に突き刺さる冷気は痛く感じられるのだ。

「寒いのは嫌だ」。子どもの時分から、くり返しくり返し、私の中にインプットされた言葉だ。よく「夏と冬とどちらが苦手ですか?」という質問を受けるが、私は即座に「冬です」と答える。

「夏はもう脱ぎようがないけど、冬は着てさえいればいいから」という理由で夏が苦手と答える人がいるが、意地悪な言い方をすれば、そういう人たちはいくら着ていても寒いという状況を知らない人たちだ。

そんなことを今書きながら、何とも脈略のない人間と思われるだろうが、私が一年のうちで最も好きなのは、この霜月11月なのだ。空がとても高く、空気が冷気を含んだ分、澄んでいる。本格的な寒さを迎えてしまう予兆がところどころに見受けられ始める。

明らかに冬に落ちていく前の、深まってゆく秋の感触は、ざわざわとした胸騒ぎさえ覚え、不安定な気分が心を覆ってゆく。(余談ながら、この不安定な気分は世間でも一般的なものであるらしく、少年犯罪が最も多発するのがこの11月であるらしい)この不確かな、やるせないような季節に自分の身を置くことが、不思議と大好きなのだ。

もう一年の大半が終わりかけていて、月が変われば年の瀬という落ち着かないこの時期に、私は今まで、恐らく年内の中では最もいろいろなことを考え、かつまた、私の中でいろいろなことが起きてきた。6年前に勤め人生活を止め、店を開いたのもこの月だった。

今年は何が起きるのだろう、そろそろまたあの胸騒ぎが、私に訪れ始めている。

 

 

第63回:いつも讃美歌があった