第23回: ヒターノは踊る その1
私が初めてイビサに住み始めた頃、まだジプシーやアンダルシア人の出稼ぎ組は少なかった。それが、数年を経ずして急激に増えた。スペイン語でジプシーを“ヒターノ(gitano)”と呼ぶ。彼らはレストランやホテルの下働きに欠かせない労働力になっていったのだ。
そして、大家族主義の彼らは、アンダルシアから次々と家族を呼び寄せ、家族だけでなく、村の同族を呼び、狭い石畳の小道がうねるような旧市街のダル・ヴィラ(Dalt Vila)、港の海岸線と平行して走るカジェ・マジョール(Calle Mayor)とカジェ・デラ・ヴィルヘン(Calle de la Virgen)界隈の中世さながらの家に住みつき始めた。元々そんな旧市街に住んでいたイビセンコたちは、狭く暗く積み重なるような住居を嫌い、郊外の近代的なピソ(Piso;マンションの一室)に逃げるように移り住んで行った。
一旦、ジプシーがそこに入り込み居座ると、地域全体がまるでペスト菌にでも冒されたように、元の住人は去り、ジプシー部落になるのだ。アメリカで団地に黒人が移り住んだ途端に、不動産の価値が下がり、一挙に黒人居住地区になっていくのと同じ現象がイビサでも起ったのだ。

ローマ時代の城壁都市は坂道が多く居住環境は決して快適とは言えない
ショーバイ柄、実に多くのジプシーやアンダルシアからの出稼ぎ組と付き合うことになった。当初、彼らが互いに面と向かって、「オイ、ヒターノ(ジプシー)」と呼び、彼らも、「私はヒターナだよ、カステジャーナ(Castillana;スペイン人)じゃないよ」と、平然と言うことに、軽いショックを受けた。
アメリカの黒人を“アフリカ系アメリカ人”と呼ぶのが、政治的、社会的な道徳として正しいことになったように、奇妙にねじれた人種意識は全くなく、私はヒターノ、お前はカステジャーノで何が悪い!と、ヒターノ自身も、スペイン人も、人種的な呼称に妙にこだわることをしないのだ。
外見からヒターノと一般のスペイン人を区別することは全く不可能だ。一般的なヒターノのイメージは、黒い髪、黒い瞳、長いまつ毛に、細オモテの顔、肌はオリーブから褐色というところだろう。でも、この特徴はスペイン人、取り分けアンダルシア人全般に当てはまることなのだ。
私のところへ、洗い場担当のカルメン叔母さんが数回ピンチヒッターを送ってきたことがある。カルメン叔母さんに急用ができたとか、悪性の風邪をひいたとかの理由で、仕事に来られなくなったからだ。そんな意味でも、カルメン叔母さんはとても責任感が強く、必ず代わりの人を送って寄越すのだ。姪っ子のイシドラは、色はあくまで白く、金髪、青みがかった緑の目と、まるでスカンジナビアの少女のような15歳だった。イシドラはヒターナで、一旦口を開くと、上品とは言えないアンダルシアのイナカッペの話し方をするのだった。イシドラはすでに二人の子持ちで、もう一人、お腹の中で育成中だった。結婚したのは13歳の時だったそうだ。
もう一人、カルメン叔母さんの遠縁の娘、マリアは18歳だったが、「私、美人じゃないし、もうこんな歳になっちゃたから、誰もお嫁に貰ってくれないの…」と、ケナゲなことを言っていた。どうして、並以上の可愛らしい丸顔の少女なのだが、ヒターノ文化では18歳は大年増のカテゴリーに入るらしい。これは、後でカルメン叔母さんに確かめたから、間違いないだろう。アンダルシアの村では12、3歳の花嫁、15、6歳の新郎は当たり前だということだった。
カルメン叔母さんの妹、ロシータは19歳で、もう誰も貰い手がなく、シカタナク? カステジャーノのマリアーノと結婚した。19歳の年増ロシータを相手にするヒターノは村にいなかったと言うのだ。マリアーノは、その時40歳の坂を遠の昔に越えた色黒の小男で、軽くビッコを引いていた。マリアーノこそ、ヒターナ以外誰にも相手にされない歳、容貌なのだ。一見したところ、マリアーノの方がヒターノで、色白でぽっちゃりしたロシータがカスティリャーナのようだった。
一番長い間、ウェイトレスとして働いてくれたアントニアもヒターナだった。彼女は本当によく気が付く、『カサ・デ・バンブー』クラスのカフェテリアにとっては、最高の働き手だった。彼女に会計をさせているのを、お客さんが払った料金を受け取り、小さな金庫箱に入れ、おつりを出すだけのことなのだが、アントニアに現金を自由に触らせ、金庫の開け閉めまでやらせているのを見て、他の人から何度“忠告”を受けたことだろう。
「お前、ヒターノのことまだ知っちゃいないだろうけど、絶対にお金に触れさせてはダメだ。お金だけでなく、在庫のワイン、コニャックなどにも、いつも目を光らせておけ」と言うのだ。
確かに、イビサではコソ泥的盗難が多い。今数えてみると、ほとんど毎年のように、私の足であるスクーター(Vespa)やモペッド(Moped)が盗まれた。店にも二度泥棒が入ったし、私のアパートも二度被害に遭った。ヒターノがモノを盗むというのは、当たっている部分もあるにしろ、窃盗の大半はヒターノ以外の人間、スペイン人だったと思う。
少なくとも、私のアパートに入り込んだのは二度ともオランダ人だったし、食い逃げしようとしたのはスペインの軍事基地に住むアメリカンスクールの悪餓鬼で、テーブルの上に置きっぱなしになっていた会計支払い金を持ち逃げしようとしたのはバルセロナ生まれのカタラン人だった。この島にはドラッグ、マリファナ、酒に溺れたカステジャーノ、アングロサクソン、ゲルマン、フランクはたくさんいるのだ。

漆喰壁で統一された城壁内は坂道と階段ばかり
私のヒターノの窓口は、カルメン叔母さんとアントニアだった。そのツテで、叔母さんの甥っ子の結婚式に呼ばれたことがある。式というより披露宴だったが、まず何を着ていったものか見当が付かなかった。もちろん、背広のようなものは、ジャケットすら持っていなかった上、前に線の入ったズボンすら持っていなかったからだ…。
イビサに辿り着く前に、スペイン全土を旅して回っていたが、その時、アンダルシアの山村で結婚式を目撃したことがあった。女性はなんと言うのだろうか、フラメンコの舞台衣装のように派手派手しい色合いのドレスを着込んでいて、それがまたピタリと決まっていた。男性も一張羅を着込み、フリルのたくさん付いた衣装の女性と今にも舞台に立つ様な服装をしていた。
カルメン叔母さんは、「ナ~ンダそんなことは気にしなくていいよ。今着ているそのままで全く問題がない…」と請合ってくれた。
会場がイビサのサッカースタジアム(スペインリーグの3部チームのホームグラウンドで、一応観覧席も付いていた)だと言われ、とても奇妙に思えた。当日、丁度日本から届いた小包みに甚平の上下が入っていたのを、これ幸いと着込んで出かけて、そのスタジアムの光景に驚いた。
ちょっと見当も付かないが、500人から1,000人くらいは集まっていたのではないだろうか。イビサにこれほど多くのヒターノがいたことにも驚いたが、新郎、新婦の門出を祝うのに飲めや食えのドンチャン騒ぎの極みだったのだ。静粛な儀式、挨拶などは、薬にしたくてもない状況だった。
サッカーのゴールのある正面に新郎、新婦、主だった両家の家族が陣取ってはいたが、他は全員サッカーグラウンドに立ちっぱなしで、周囲に並べられた長いテーブルにワインと豚の丸焼きが置かれ、各々がそこに自分の食べ物、飲み物を取りに行くというヴァイキングスタイルだった。一体これだけの人数に飲ませ、食べさせるためにどれだけお金を使ったのだろうかと、ケチな考えがよぎった。
新郎、新婦のテーブルに近づいてみると、この披露宴に呼ばれた人たちが口々に祝福し、実弾を手渡しているのだった。そうなのだ、封筒に入れたり、紙に包んだりせず、現金をそのまま新郎新婦に手渡していたのだ。私も、“そうか、そういうことだったのか”と了解し、モゾモゾとポケットから何千ペセタかを取り出し、彼らに渡したのだった。
ヒターノの結婚披露宴は、私に“ポトラッチ”*1を思い起こさせた。主催者は有り金全部を叩いてでも招待客を満足させなければならず、呼ばれた客も精一杯のご祝儀を渡す…のがシキタリのようだった。
あれほど雑然としてしている、レセプションとも呼べないパーティーで、誰がいくら置いていったかなど、分かるはずがないと思っていたところ、すべてをかなり正確に記憶、把握していたことを後で知らされ、さらに驚いた。
-…つづく
*1:ポトラッチ(potlatch):アメリカ及びカナダの先住民族によって行われる祭りの儀式で、裕福な家族や部族の指導者が家に客を迎えて舞踊や歌唱が付随した祝宴でもてなし、富を再分配するのが目的とされる。巨大な丸太を彫刻したトーテムポールが彫られ、これを部族員総出で立ち上げる行事などが特徴。
第24回:ヒターノは踊る その2
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