第24回: ヒターノは踊る その2
それまでに、私はマドリッド、グラナダ、セビリアで観光用のタブラオ・フラメンコ(Tablao Flamenco)のショーを何度か観ていた。イビサでのフラメンコはそれと全く違ったものだった。そこでは、自分たちのためだけに歌い踊り、各自それぞれが主役だった。造られたショーのように洗練されてはいなかったが、元々が土着の音楽、踊りなのだ。
悪い音響システムで歌っていたのはアンヘリータだった。彼女の兄アントニオがギターをかき鳴らしていた。この兄と妹は、イビサでは誰しもが認める音楽家だった。アンヘリータが最初に私の店にキッチンの助っ人として来たのは、彼女が16、7歳の時だったと思う。
彼女は丸い顔に深く輝く印象的な目を持ち、大変な美形だった。アントニオは物静かな青年で、軽くウェーブした艶やかな黒髪を顔を隠すように垂らし、忘我の境地に入り込んでいるかのようにギターをかき鳴らしていた。
アントニオもアンヘリータがチャーミングなのと同様、大変なハンサムボーイだったが、キリリとしたアンヘリータに比べ、眉が下がり、もう少しで泣き顔になる一歩手前の優しい顔をしていた。
事実、アントニオはとても静かな性格で、いつもギターを抱え、持ち歩き、海岸淵の松の木陰で、一つひとつの音を確かめるようにギターをつま弾いているのだった。
それまでザワつき、騒然としていたサッカースタジアム全体が、アンヘリータとアントニオにグイッとばかり注意を向けた。アンヘリータとアントニオは、聴かせる曲と踊らせる曲をうまく織り交ぜて演奏を続けた。サッカースタジアムが一挙にフラメンコディスコになったかのように、相当な爺さん婆さんから4、5歳の子供までが踊り出したのだ。
洗い場、台所で見慣れたアンヘリータとは全く異なる、光輝く自信に満ち満ちたアンヘリータがそこにいた。太く力強い地声で呟くように、叫ぶように、絶叫するように、アンヘリータは歌い続けた。
誰かが音頭をとるように、”ヴィヴァ、ノヴィア!(Viva Novia!;新婚、万歳とでも言うことになろうか)“と叫び、それを聞いたアンヘリータもマイクで、”ヴィヴァ、ノヴィア!“ともう枯れてきた喉から絞り出すように、歌うように叫んだところ、白いドレスを着た花嫁がやおらテーブルに登り、グイッと顎を引き、スカートの裾を掴み、踊り出したのだ。
私は民族が持つ熱狂を目の当たりにしたのだ。日本のお神輿担ぎも、安保反対デモも同じリズムで、日本人の体内に宿るリズムはあの一種類しかないのか…と思わせるが、このヒターノの集団にはいくつかのリズムが体内に宿り、よそ者には複雑に聞こえるリズムもまさに満場一致でピタリと決まり、一呼吸おいてまた手を打ち合わせ、足を踏み鳴らすのだ。
誰かが音頭を取るわけでもなく、自然に体の内から出てきて、全員の呼吸が合うのだった。私は統制された人間の集団を体質的に受け付けない傾向があるが、このヒターノ集団、少なくともお祝い事の時、音楽を通しての集団に圧倒され感動した。
後日、アンヘリータに会った時、結婚披露宴で正直、感動したこと、どうしてあのような体の心底から歌い上げることができるのか、プロの道に進むべきではないかと…余計なゴタクを並べた。
アンヘリータは、あれが“カンテ・ホンド(Cante jondo;ジプシーの悲哀歌)”の一部だけで、私たちの“サングレ(sangre;血)”が歌わせる…と言ったものだ。もっとも、あのような曲、歌は、レコーディングスタジオで録音し、レコードにカットしても、肝心の“サングレ”の部分は伝わらないだろうと思う。
そして、アンヘリータは台所でおとなしくいつものように皿を洗っていた。

イビサ旧市街の城壁内にはローマ時代の正門から入る
ヒターノの文盲率は高い、カルメン叔母さんも自分の名前くらいは書けるだろうが、恐らく新聞、雑誌は読んだことがないだろう。若い世代、ウェイトレスのアントニアやアンヘリータたちは違う。実際に、一冊の本でも読んだことがあるかどうかは別にして、文盲ではない。
字が読めない分だけ記憶が発達する、とは言えないのだが、ヒターノたちが全般に異常なほど数字、主に金銭に強いことを思い知らされたのは、例の結婚式の時に、実弾で(現金そのままで)相当数の列席者からご祝儀を受け取っていたのを、きちんと“誰が幾ら”と覚えていたのには呆れてしまった。
新郎新婦のテーブルは混乱しており、お金を渡す方も、受け取る方も、相当酔っていたし、何十人何百人という参加者が新郎新婦、その家族に手渡しで現金を握らせていた。もちろん、それをいちいちノートに取るようなことはしていない。
さらに、プライバシーの感覚が西欧人たちと全く異なるヒターノの間に、誰が幾らのご祝儀を渡したか、多かったか、少なすぎたのか知れ渡っていたのだ。あの披露宴パーティーにカステジャーノ(非ヒターノ)ももちろんいた。だが、毛色の全く違うヨーロッパ人、東洋人は私以外に来ていなかったと思う。私が手渡したご祝儀が少な過ぎたかどうかが気になり、カルメン叔母さんに訊いてみたところ、もちろん、彼女は私のご祝儀の額を正確に知っており、「タケシは私の客だから、あんなに渡すことはなかったけど、エスタ・ムイ・ビエン!(あれで充分よ!)」とのことだった。
私はヒターノになろうと思ったことはないし、彼らのインナーサークルに入ろうとしたこともない。邪魔にならない傍観者でいたいと思っただけだ。しかし、例の結婚披露宴のあと、道で行き交うヒターノたちに声を掛けられ、挨拶されることが多くなった。というより、大声で挨拶されずに旧市街を20、30メートルと歩くことができないほどの “サルード(Saludo;挨拶) ”攻めが続いたのだった。
アンヘリータはアンダルシアの同じ村の青年ヒターノと結婚し、すぐに子供が生まれた。兄のアントニオは相当年上の、恐らく40の坂はすでに越えているであろう、自称公爵夫人のメンチュと同棲し始めた。

イビサ郊外のSan Carlos教会、どこの地区にも小さな真っ白な教会がある
-…つづく
第25回:ヒターノ集団は荒らし、逃げる?
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