第6回:フランコ万歳! その6
レパートリーの広さも大変なものだが、石岡番長は後に通称“エロ番”で通ったほどワイ歌を知っており、それを高吟するのだった。車座に集うのは80パーセントは日本男子だったが、女性も数人いたし、興味本位で酒宴に加わる、北欧人、カナダ・北米人もいた。
私が少しばかり英語ができるのを知った彼らは、何を今歌っているんだ、エロ歌の歌詞を訳してくれと頼んでくるのには参った。歌麿が浮世絵で表現したことを、ああして唄にしているのだと、エロ番の唄がとても歌麿レベルのゲージュツの域に達していないことは明白、自明のことなのだが、苦しい解説を強いられたのだった。

その昔番長室の入口に貼ってあった日本国旗
(クリックで「番長日誌」第35代~)
※織江耕太郎ブログから画像を拝借
番長などというと、“花の応援団”か少しグレた高校生グループが粋がって“バンを張る”イメージだが、マドリッド・ユースホステルの番長は、スペイン全土のバックパッカー向けインフォーメーションセンターの役割を果たしていた。先達が残していった貴重な記録、例えば、中近東、アフガニスタン、インドを経て、タイまでのローカルバスの乗り方、宿泊所、食べ物をどこでどう手に入れるか、微に入り細に入り書き込んだノートなどを管理していた。
元本を造ったヤツも凄いが、その後たくさんの書き込みがあり、バックパッカーのバイブルと呼びたくなるほどのものだった。スウェーデンの仕事場、南に下ってアフリカ縦断の方法などの資料も残されていた。もちろん、安レストラン、穴場的な娼婦の宿などの記録もあった。番長は面倒見の良い男がなる世話役のような存在だった。
酒宴は2、3時間続くが、切り上げの潮時がとてもよく、「サ~、それじゃこの辺でお開きするか…」という掛け声で、店仕舞いするのだった。日本でシツコク、何軒もハシゴし、ダラダラとクダを巻く酒飲みを見てきた私には、新鮮に映った。スペインの乾いた空気のせいか、ワインのせいなのか、と思わせるほど鮮やかな引き際なのだ。建物、寮の中にまで宴会を持ち込まないのだ。もちろん、一人で寝酒を飲んでいるヤツはいたとは思うが、寮の中はとても静かだった。
私も勧められるまま、呑みつけないワインをいささか呑み過ぎ、前後不覚に寝入ってしまった。夜半、体をチクリと刺し、もぞもぞ動くモノに目を覚まされた。それが、スペイン南京虫との出会いだった。
北海道産の私は、当時、北国の住宅事情、冬ストーブで暖を取れるのは家の中でも一間、居間だけ、その他の居住空間、台所、便所、寝室はシバレたままの生活だったから、ゴキブリも南京虫も生存できなかったのだろうか、見たことがなかったのだ。虫どもも、冬場を越せなかったのだろう。
港区にある大学の寮で、初めてカブトムシ大のゴキブリが這い回るだけでなく、飛びかうのを見た時には、ド肝を抜かれるほど驚いた。そして、南京虫の洗礼はこのマドリッドのユースホステルだった。南京虫はただ驚くだけでは済まなかった。
体質的に蚊や虫に刺されると異常に腫れ、猛烈な痒みに襲われる。しかも、よく人が言うように血が甘いのか、北海道のキャンプや山歩きでも集中的と呼びたくなるほど、羽虫、ブヨ、アブ、ヤブ蚊が私に寄って集って、集中攻撃をかけてくるのだ。

Chinche de cama(Bed Bag;南京虫)
朝、痛痒さにたまらず、2段ベッドの上段から這い出した。これは拷問に近い。刺されたところはマンゴーを半分切りにして、皮膚に付けたように腫れ上がっていた。起き掛けに、「お前、ナンチュウ面してるんだ、お岩さん以上だぞ!」と挨拶したのが、オヒツ(ダキオ)だった。私の壮絶な虫刺され、腫れを見て、私を“虫喰われ”と命名したのもオヒツだった。その時、私は一体どんな虫にやられたのか知らなかった。それが南京虫、スペイン語で“チンチェ(chinche)”であると教えてくれたのもオヒツだった。
そして彼は、私が寝ていた薄いマットレスを引き降ろし、太陽の下に持ち出し、南京虫なるモノを見せてくれたのだった。マットレスは、南京虫を潰した血で染みだらけだったが、その縫い目に茶黒く太ったペン先ほどの大きさの虫が居るわ居るわ、何十匹もモゾモゾうごめいていたのだった。
それが南京虫を見た最初だった。その時、どういうのだろうか、私の全身が粟立ち、鳥肌が立ち、汚物をかけられたような、また恐怖に引きつった感覚に襲われたのだ。それは血管が凍るような、背筋だけでなく体芯を鋭く大きな爪でグイと握られ揺さぶられたように全身で感応したのだ。本能に根ざした恐怖だったのだろうか。
私のイビサ時代からの友人で、ネズミ恐怖症のヤツがいる。一度、私のアパートでのことだったと思うが、小さなネズミが台所から部屋を横切ったのを目の端に捉えた彼が、恐怖映画の絶叫のように、「ギャー」と叫び、テーブルに飛び乗り、叫び続けたのだ。はじめ冗談、演技だと思っていたが、彼の顔は引きつり、蒼白で、身体全体の筋肉が硬直していた。
それと同じように、南京虫に対して、私の身体全体が反応したのだ。考えてみれば不思議なことで、それまで私は南京虫を見たことがないのだ。初対面なのだ。それでいて、そのように過激とも異常ともいえる反応が出たのだ。
南京虫を殺すのは簡単だ。相手は至ってノロマで、すばやく動くことをしないから、ボールペンの先などで潰せる。問題は絶滅することだ。何せ相手の数が多く、しかもどこに隠れているか、どこに卵を産み付けているか見当の付けようもないのだ。
第7回:フランコ万歳! その7
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