降りた列車を振り返り見るという仕草が癖になっている。もう用はないけれど、どんな車両に乗ってきたか再確認したいという気持ちがある。仕事を終らせた仲間に「おつかれさん」、「ありがとう」と声をかけたいという気分にも近い。もっとも声を出せば変人だと思われるに違いなく、黙って振り返るだけだ。私が乗ってきた近鉄特急の顔に「奈良」の文字が掲げられていた。橿原神宮から京都へ。そして帰らずに今度は奈良へ。近鉄は器用に車両を使いこなしていた。
寝台特急「あかつき」の発車まであと4時間ちょっとある。私はまずJR東海の窓口に行き、使わなかった名古屋-京都間の新幹線特急券を払い戻した。クレジットカードで買ったので現金の返却はできないそうだ。きっぷに未使用証明の判子が押され、それを購入した駅で渡し、カード会社から銀行振り込みで返金される仕組みだという。
手持ちの現金が減ってしまったけれど、今は全国のコンビニで銀行預金が引き出せる。便利な時代になったものだと思う。20年前の旅では現金管理のメモを作り、一日に何度も財布の中身を確かめていたような気がする。少年時代の、小遣いの少ない旅だった。
窓口を出ると向かい側に京都駅周辺の地図があった。私は地図を無心で眺めた。これからどうするか。地図が教えてくれそうな気がする。路線図を眺めていれば、自然に最適なルートが浮かび上がってくる。私は無心になり、頭の中でルートの完成される時を待ち続けた。4時間は長いようで短い。1時間の余裕を持ち、片道90分を目処に往復するか、3時間程度で周回するか。地下鉄の路線と駅をたどった。そこに接続する私鉄の駅も見つけた。脳裏に浮かんだルートを地図上に再現し目線で追う。見えた。私は駅前のバスターミナルへ向かった。
京都駅コンコースの巨大な空間。
京都駅ビル改札口前の巨大な吹き抜けに圧倒されつつ、地下街に下りた。北口のバスターミナルは約20も乗り場がある。ひとつの乗り場を複数の路線が共用するとしたら、数え切れないほどのバス路線である。私は阪急の河原町駅に行きたいが、どこから乗ればいいのかわからない。地下街をうろうろしていたら、ありがたいことにバスの案内所を見つけた。河原町方面はAの2番。A2はさっき通り過ぎたところだ。戻ってよく見ると、たしかに河原町の文字があった。どうしてさっきは見過ごしてしまったのだろう。
京都はバスの街であるらしい。碁盤の目の街をくまなく網羅するために路線系統が多様化している。京都という土地柄において、ほとんどの路線は名刹を経由するため、観光客の便を考えると京都駅発着にせざるを得ない。だからほとんどのバスが京都駅に集合するのだ。そうわかった理由は、私の周りのバスが10台以上も同時に発車したからである。ロータリー出口の信号待ちで、私のバスの前に10台ほど並んでいた。もちろん一回の青信号では通過できない。修学旅行の観光バスか移民団かと思われそうな隊列だが、すべて違う行き先である。
前に進むほど"僚機"がひとつずつ隊列を離れていき、やがて私のバスも独立行軍を始めた。しかし歩みは遅いままだ。バスは少ないが、自家用車の渋滞がひどい。片道2車線の片側が駐車場待ちのクルマでふさがっている。
そういえば今日は日曜日だった。クルマのナンバーを見る限り、渋滞の原因は観光客ではなく地元の買い物客のようである。慢性的な渋滞は地方都市の解決すべき課題であり、京都も例外ではない。地下鉄を開通させたが効果はなく赤字が膨らみ、今度は廃止した路面電車を復活させようというアイデアもあるらしい。果たしてこの細い街路に軌道を作るゆとりはあるだろうか。
阪急河原町駅は"デパチカ"にある。
河原町は賑やかな街だ。商店が延々と並び、若い人が多く、早くも夏の装いで華やかである。バスを降りると阪急河原町駅は交差点の対角線側にあって、信号待ちの人々が歩道をふさいでギッシリと並ぶ。
私はスーツケースを引きずりながら横断歩道を渡り、阪急百貨店に入った。クーラーが効いて快適だが、そこは化粧品売り場など私には縁のない場所だった。化粧品売り場だけではない。華やかな河原町そのものが、どうも私には居心地の悪い場所であるように思われた。駅は別の入り口らしい。私はフロアを横切り、反対側の入り口の隣の階段を下りた。改札口ときっぷ売り場を見つけて安堵する。どこに居ても鉄道のそばなら安心だ。知らない街では特にそうだ。
チョコレート色の電車が河原町を発車した。地下にもぐりたくない、という思いで路線バスを選び、地下鉄踏破よりも地上の鉄道に乗りたいと阪急線を選んだけれど、阪急京都線は河原町から二つ先の西院まで地下区間だった。しかしがっかりしてはいけない。歴史の長い私鉄の地下区間といえば交通渋滞を避けた地下化が多いけれど、この区間は当初から地下路線として作られた。すでに地上は京福電車が開通していたためであろう。しかも大宮と西院の間は大阪市営地下鉄よりも早く開業したため、関西初の地下区間となり、さらに阪急でたった3箇所しかないトンネル区間のひとつがここだ。珍しく貴重だが、通ってみれば景色が見えないからやっぱりつまらない。
阪急電車で桂へ。
地上に出れば景色が見える。そこはもう古都の範囲を脱しているようで、塔や寺社は見えない。ただ現代の町並みがあるのみだ。それでも殺風景というわけではなく、車窓右側は並木があって久しぶりに緑を眺めさせてくれた。車窓左側も背の低い緑が並行する。この緑は次の西京極駅まで続く。途中に踏切がひとつか二つあって、そこから先は高架区間に上がった。西京極駅の先はスポーツ公園のようで、野球場やドーム状の体育館が見えた。一瞬、緑が消えたと思ったら桂川を渡った。川岸まで木が茂っている。探検ごっこに絶好の場所に見えるが、人の姿はなかった。立ち入りが禁じられているのだろうか。
桂川を渡ると電車は地上に降り、桂駅に着いた。ここから阪急の支線、嵐山線が出ている。嵐山に向かい、京福電鉄を全線踏破して四条大宮から京都に戻る。それが地図を見て浮かび上がった周遊コースだ。短い時間だが阪急嵐山線と京福電鉄を全線踏破できるから満足度は高い。嵐山には公園があり、ちょっとした京都観光も楽しめそうだ。これが長崎へ行く旅の"寄り道"とは愉快である。
桂川を渡った。
-…つづく
第202回~行程図
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