■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち


杉山 淳一
(すぎやま・じゅんいち)


1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。




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第301回:旅と日常の舞台
-神戸新交通ポートアイランド線-

第302回:車両を持たない鉄道会社
-神戸高速鉄道-

第303回:街から10分でダムの山
-神戸電鉄有馬線 1-



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感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■鉄道ニュース(レポーター)

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■著書

新刊好評発売中!(6/23/2009)
『もっと知ればさらに面白い鉄道雑学256』
杉山 淳一 著(リイド文庫)



『知れば知るほど面白い鉄道雑学157』
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■更新予定日:毎週木曜日

 
第304回:スパイラルと複線化工事 -神戸電鉄粟生線-

更新日2009/10/15


神戸電鉄の鈴蘭台駅。粟生行きの電車の一番前に立って前方を眺める。右手に複線の線路が見えて、その左隣に線路が1本。ポイントの方向をなぞると、この単線が粟生線のようだ。さらに左側には2編成ほどの留置線があって、粟生線の線路の先を隠していた。その先にはマンションが建っていて、どうもここからでは粟生線の進路がわからない。


鈴蘭台の先のスパイラルカーブ。

さて、どうなるかと目を凝らした。電車が走り出すと、留置された電車に隠れた線路が見えた。なんと、急勾配の上りスパイラルカーブだった。これを昇るのか、すごい電車だ。線路の高さがグングン上がる。3両編成の電車ぶんの長さで、電車の丈の半分くらいまで上り、そのままのカーブで崖下を駆け上がる。電車が普及した時代ならではの線路だ。蒸気機関車時代の古い技術では、こんなルートは想定できなかっただろう。左にあった崖が、こんどは右側になり、そして両側になってトンネルに入った。トンネルを出たところで鈴蘭台西口駅。ホームのトンネル側はまだ勾配になっている。これはまさしく登山電車というべき形状だ。

神戸電鉄粟生線の前身は三木電気鉄道という。三木電鉄は1936(昭和11)年に鈴蘭台と広野ゴルフ場前までの13.5キロを開業した。登山電車という感想は当たらずとも遠からずで、どうもこの路線は遊楽地向けに敷かれたようだ。この鈴蘭台西口駅は開業時は鈴蘭ダンスホール前という名前で、広野ゴルフ場前駅の手前の緑が丘駅は広野野球場前駅だった。行楽列車の様相を呈しながら翌年には三木に到達。それから15年後には小野に延伸。その翌年に加古川線の粟生駅に接続して全通している。


随所で複線化工事中。

兵庫県北西部から神戸・三宮へは、加古川線と山陽本線を使うと南へ迂回する形になる。三木鉄道を継承した神戸電鉄は、それを一直線で結ぼうと計画したのだろう。だから蒸気機関車時代は実現できなかった山道を電車で結ぶというアイデアを実行した。なるほど。上手いことを考えた。しかし、いずこも同じ運命として、戦後のモータリゼーションと高速道路の普及に見舞われた。国鉄に勝っても高速バスにやられた。現在は赤字ローカル線となっていて、沿線自治体の援助を受けている。

住宅地を結んでいるから、通勤路線として起死回生の機はあるだろうと思ったけれど、西鈴蘭台から緑が増えて、のどかな景色になった。線路は複線のゆるい下り坂となって、電車は軽やかに走っている。住宅が多いあたりが単線で、こんな田舎が複線になっている。アンバランスだと思ったら、恵那から先は単線だ。そしていくつも複線化用の用地や路盤を準備しているところがある。作りやすいところから複線化して、立て込んでいるところは後回し、ということだろう。

複線化しようとすると細い道路をつぶさなくてはいけなかったり、もうひとつトンネルを掘らなくてはいけないような区間もあれば、すでにトンネルができている所もある。複線化に着手して路盤を作ったものの、中断して放置され、すでに廃線のようになってしまったところもある。悩ましい線形で、当分はJRの北陸本線や羽越本線のように、単線と複線が混在した形態が続きそうだ。幸いなことにJRの幹線とは違い、ほとんどが普通列車で、車両の性能の差も小さい。それでも列車ダイヤを作る人にとって手腕の見せ所である。もっとも苦心したであろう朝の通勤時間帯に乗ってみたくなった。


市染駅で複線区間は終わり。

断念された区間が終わり、駅のないところから複線区間が再開した。ため池を渡り、高速道路を潜って、木津駅を出てしばらく走ると車両基地があった。次の木幡駅とはちょうど中間あたりだ。広い場所を確保するだけでも苦労したらしい。その次の栄駅からはスピードが上がる。モーターが声も高らかに歌うようだ。しかし次の押部谷駅で複線区間は終わった。線路に「調子に乗るな」と言われたようで残念だ。しかし単線区間でも電車はスピードを出している。

緑が丘駅の左手に林が見える。これが広野ゴルフ場で、次の広野ゴルフ場前まで続くほど広い。広野ゴルフクラブの開業は1932(昭和7)年。電鉄の開通する4年前だ。私はゴルフに興味はないけれど名門コースだそうで、ここに作られたゴルフ博物館は世界で3番目の規模だという。だからこそ電車を通したのだろうけれど、いまやゴルフはクルマで行くものだ。それとも当時は道具もゴルフクラブに預けて、手ぶらで通ったのだろうか。お金持ちの趣味なら、道具を預けて保管とメンテナンスを託したかもしれない。電車に乗ることだってハイカラな時代であろう。


市場駅の引き込み線。

森と住宅地が交互に現れる。単線区間だからといって列車がノンビリしているわけではない。コトンコトンと快調に走っている。なにしろ鈴蘭台付近の山岳区間用に作られた電車である。平坦な区間ではチカラを持てあましている。沿線は住宅も多く、すべての駅にすれ違い用の設備を作って、沿線をニュータウンとして開発すれば、粟生線はドル箱になりそうだ。そうしたら都心へ直行する急行をどんどん走らせて、高速バスのお客を取り戻せるかもしれない……と夢想する。

三木上の丸駅と三木駅の間には美嚢川がある。「みのうがわ」と読む。三木上の丸駅までは1937(昭和12)に開業した。しかし、粟生線がここから橋を渡って小野駅まで到達するまでに14年かかっている。資金にも苦労した路線だと言えそうだ。三木市から南西方向に延びた三木鉄道は昨年春に廃止されてしまった。鉄道が成り立ちにくい土地だろうか。


小野駅で乗り換える。

三木駅でごっそりお客さんが降りて、次の大村駅でほとんどのお客さんが降りてしまった。4両編成の電車は私とオジサンの二人だけだ。大村駅を出ると大きな病院があった。降りた人たちの目的地はあそこかもしれない。電車は森の中へ。起伏の激しい区間である。市場という駅があって、引き込み線がある。市場らしき建物は見えない。引き込み線の先は枕木が積んであるけれど、ここは昔、市場だったかもしれない。

私が乗った電車は小野止まり。粟生行きまでは15分の待ち時間だ。小野駅は橋上の駅舎で、上ると周囲を見渡せる。駅前は整備されており、ロータリーもあるけれどバスの姿はない。木々に囲まれた学校が見える。小野市の中心となる駅だ。しかし商業施設は見あたらない。とても良い環境の住宅地である。つまり、改札を出ても仕方ないと言うことだ。


加古川を渡る。

後続の電車に乗り換えて、ふたつの学校の間を走り、また学校の脇を通った。そこから先は畑、葉多駅を出て木立を抜けると鉄橋で、これは加古川を渡っている。なるほど、終点まであと二駅という小野駅で、半分の列車が折り返す意味がわかった。生活圏が加古川で隔てられているようだ。加古川線の向こう側まで小野市ではあるけれど、粟生と小野の行き来は少ない。線路のそばに橋がないこともそれを示しているようだ。おそらく、通学時間帯以外は閑散とした区間なのだろう。

電車は右へ大きくカーブして、加古川線に寄り添って粟生駅に着いた。神戸電鉄の粟生駅は線路が1本。ホームは両側にある。お客の乗降は右側の新しいホームだった。左側のホームは、かつてJRと共用していたと思われる。しかしいまは柵で仕切られて使えない。小さな改札口は自動改札となっていて、スルッと関西カードで通り抜けられる。

粟生駅はJR加古川線と北条鉄道も使用する駅で、ちょっと佇んでみたいけれど、次の北条鉄道の列車は4分後。用事のあるお客さんにとっては好都合で、鉄道ファンには酷な時間である。帰りに立ち寄る時間を作るとして、停車中のディーゼルカーへ急いだ。あれに乗り遅れると、次の列車は1時間後になってしまう。今回はいつもの旅とはちょっと違う。北条鉄道の取材仕事で、重要人物のインタビューが待っている。


粟生駅に到着。

-…つづく

(注)列車の時刻は乗車当時(2008年10月)のダイヤです。

第301回からの行程図
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