第224回:流行り歌に寄せてNo.36
「カスバの女」~昭和30年(1955年)
レコードをリリースしてからヒットするまでに、かなり時間のかかった曲というものがある。
小林旭の『昔の名前で出ています』はリリースが昭和50年の1月。それから2年以上掛かってようやくヒット曲となり、52年の紅白歌合戦でも披露され、その後ロングセラーになった。
佳山明生の『氷雨』などは、昭和52年12月にリリース、その後4年後の56年12月に再発売したが、まったく売れなかった。ところが、「こけの一念」翌57年の7月に再々発売し、これがようやくヒット、日野美歌、箱崎晋一郎がカヴァーし、競作となった。
それらを遙かに凌ぐ時間が掛かったのが、今回のエト邦枝の『カスバの女』である。
レコードがリリースされたのが、昭和30年。他の歌手たちのカヴァーによりヒットしたのが昭和42年。なんと、未(ひつじ)年の干支を一回りしている。
歌い手のエト邦枝、どちらが苗字でどちらが名前なのか分かりにくいが「えと くにえだ」と読み、邦枝が苗字、エトの方が名前である。ちなみに本名は笠松エト、デビュー時の芸名が宇佐見エトであった。
「カスバの女」 大高ひさを:作詞 久我山明:作曲 エト邦枝:歌
1.
涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリヤ
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け
2.
歌ってあげましょ わたしでよけりゃ
セーヌのたそがれ 瞼の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
あかい風車の 踊り子の
いまさらかえらぬ 身の上を
3.
貴方もわたしも 買われた命
恋してみたとて 一夜の火花
明日はチェニスか モロッコか
泣いて手をふる うしろ影
外人部隊の 白い服
まず、リリースしたのに売れないのには理由があった。この曲は元々同年に芸術プロによって制作された映画『深夜の女』の主題歌としてテイチクレコードから発売されたものだった。
ところが、映画の方が制作中止になったために、1,800枚ほどプレスされたレコードを、肩すかしを喰ったテイチクの営業マンは真剣に売り込むこともなく、ほとんどセールスがなかったらしい。
この時、邦枝はデビューから8年経過していた。その間いろいろなレコード会社を転々としながら、60曲ほどのレコードを出したが、ヒット曲には恵まれなかった。
ようやく主題歌を歌うことができたと思っていたら、肝心の映画の方が中止になる。失意の中で邦枝は、『カスバの女』を出してから3ヵ月後、とうとう歌手生活を引退してしまうのである。
ところが、この曲に対する思いはずっと残っていたのだろう。彼女は歌手を止めた後、歌謡教室を開き、多くの生徒に他の有名な曲と一緒に、この曲を教えることにした。
また、同時に観光バスガイドの歌唱指導者となり、バスガイドさんたちにも、生徒に教えるようにこの曲を伝えていく。それを10年間続けたのである。
そのバスガイドさんたちがバスの中で歌い、それを聴いたお客さんたちが他の場所で歌い、それがまた歌い継がれ、そうやって、ゆっくりと、じっくりと『カスバの女』は世の中に浸透していった。
そして、リリースから干支一回りした昭和42年、緑川アコ、沢たまきらのカヴァーにより『カスバの女』は、再び歌謡界に登場することになった。そして、多くの歌手が競ってこの曲を自分のレパートリーに加え、13人競作の大ヒット曲となった。
作詞家の大高ひさをは、この大ヒットの第一の功労者は、だれよりも長い間地道に歌い続け、歌い継がしてきたエト邦枝その人であると考えた。そして、すでに引退している彼女ではあるが「なつかしの歌声」などに出演させて脚光を浴びさせたいと、いろいろと働きかけたらしい。
その結果、エト邦枝は、大観客の前のステージで、再び『カスバの女』を歌うことができた。
一方、作曲家の久我山明は、この曲を作ってから2年後に郷里韓国に帰っていた。本名孫牧人として韓国音楽著作権協会を設立し、初代会長に歴任。『カスバの女』の大ヒットの報は、隣国の音楽業界の重鎮になって耳にすることになった。
エト邦枝は、その後もこの曲を大切に歌い続けていたが、昭和61年9月に中野サンプラザでの日本歌謡祭で披露したのが最後となり、昭和62年3月13日、大ヒットからちょうど20年後、大動脈瘤破裂でこの世を去った。享年71歳。
ちなみに、この曲の舞台は昭和29年から始まったアルジェリア独立戦争。故郷のパリから流れ流れてアルジェリアのカスバの酒場に売られて来た女。そして、アルジェリア民族解放戦線を討伐するために編成された外人部隊の傭兵。この二人の、実を結ぶことのない恋を歌ったものである。
-…つづく
第225回:流行り歌に寄せてNo.37「ガード下の靴みがき」~昭和30年(1955年)
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