第225回:流行り歌に寄せてNo.37「ガード下の靴みがき」~昭和30年(1955年)
私の店の玄関マットのレンタルや、紙タオルの販売をお願いしている会社のサービスマンの方は、毎年年末、可愛らしい来年用のカレンダーを持ってきてくださる。
そのカレンダーには、肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」の子どもたちが描く絵画が掲載されていて、私はいつも、その色遣いの鮮やかさと、事象に対する着眼点のユニークさに感心させられている。
私は高校生の頃、障害児福祉の仕事に強い憧憬の念を持っていた。その時分、宮城まり子園長の肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」と、福井達雨(たつう)園長の重度知的障害施設「止揚学園」は、障害児施設の双璧のシンボルであった。少なくても、私の認識としてはそうであったのだ。
だから、私にとって宮城まり子は女優、歌手と言うよりも社会福祉事業家としての顔の方を先に知ったのである。彼女が歌手として、私の生まれる半年ほど前に「ガード下の靴みがき」という曲を歌っていることを知ったのは、私が30歳を過ぎてからのことだと思う。
「ガード下の靴みがき」 宮川哲夫:作詞 利根一郎:作曲 宮城まり子:歌
1.
赤い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない
台詞
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ。
ホラ、まだ、これっぽっちさ、てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった・・・お母さん、病気なんだ・・・。」
2.
墨に汚れた ポケット覗きゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
なれているから 泣かないが
ああ 夢のないのが 辛いのさ
3.
誰も買っては くれない花を
抱いてあの子が 泣いてゆく
可愛そうだよ お月さん
なんでこの世の 幸せは
ああ みんなそっぽを 向くんだろ
最初にこの曲を聴いたとき印象に残ったのは、1番から2番の間に語られる台詞の部分である。さすがに女優というか、本当の少年のような声で頼りなげに語っている。
昭和30年と言えば、敗戦から10年が経過している。その翌年の経済企画庁の経済白書に、「もはや戦後ではない」という文言が記載され、流行語にもなったと聞く。
その時代にもまだ、靴磨きの少年が街のガード下にいて一家の生計を立てていたと言うことなのだろう。
靴磨きの少年を歌った曲としては、『ガード下の・・・』よりも4年前の昭和26年に暁テル子が歌った『東京シューシャインボーイ』というものがある。
こちらは宮城の曲とは対照的な、明るく陽気な靴磨き少年というイメージの曲で、ちょっと聴くだけでは、「こんな素敵な商売なら僕も一度はなってみたいなあ」と思わせるような雰囲気を持っている。
しかし、明るく歌うことは、却ってその影をくっきりと浮かび上がらせることに繋がるかも知れない。聴き終わった後に、ある種のやるせなさを感じてしまうのだ。
今回、YouTubeで昭和49年、宮城まり子が47歳の時にNHKの歌番組で『ガード下の靴みがき』を歌っている映像を観ることができた。一番興味のあったのはあの台詞の部分、28歳吹き込みの時とずいぶん違うのではないかと思いながら聴いていた。
ところが、その時の彼女の「台詞」はこうだった。
「ガードの下には、靴を磨く少年はもういません。でも、この歌のお陰で私はいろんな子どもたちがいることを知りました。この歌は、私のもしかしたら生き方を変えてくれた、思い出の歌です」
宮城は、このテレビ出演の6年前の昭和43年に社会福祉法人「ねむの木福祉会」を設立し、2年前の昭和47年に「ねむの木学園」を開園している。
-…つづく
第226回:流行り歌に寄せてNo.38
「銀座の雀」~昭和30年(1955年)
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