■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から


Grace Joy
(グレース・ジョイ)




中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。



第1回:男日照り、女日照り
第2回:アメリカデブ事情
第3回:日系人の新年会
第4回:若い女性と成熟した女性
第5回:人気の日本アニメ
第6回:ビル・ゲイツと私の健康保険
第7回:再びアメリカデブ談議
第8回:あまりにアメリカ的な!
第9回:リメイクとコピー
第10回:現代学生気質(カタギ)
第11回:刺 青
第12回:春とホームレス その1
第13回:春とホームレス その2
第14回:不自由の国アメリカ


■更新予定日:毎週木曜日

第15回:討論の授業

更新日2007/06/14


日本になくてアメリカにある学校の授業の一つにディベイト(debate)というのがあります。「討論」とでも訳せばいいのかしら、授業では簡単なテーマ、たとえば“満月”がいいか“新月”がいいかなど、意味のない、どちらをとってもいいような“御題”を決め、自分の意見や考えとは無関係に、クラスに線を引き、半分づつに分け、自分が属した側の見解がいかに正しく、相手側が間違っているかを論争します。

高校生になるとテーマもグンと社会性、時事性を帯びてきて、“オイルは人間に必要か”、“核エネルギーは人類に不幸をもたらしたか、それとも幸福をもたらしたか”、“広島、長崎への原爆投下の是非”など大掛りで事前の調査が必要なテーマが出されます。

その過程で、議論のやりかた、相手の意見を聞き、弱点を見つけ、どのように切り返すか、自分の意見がいかに正しいかを論理的に説得するかのトレーニングをするわけです。そこから一歩進み、ディベイトが得意な生徒さんはクラスの代表として、他のクラスとの対抗試合に出場し、次には学校代表として町や、州、全米のチャンピオンシップまで進みます。

大半の中学校、高校にはディベイトクラブチームがあり、論争のトレーニングを積みトーナメント試合に備えています。当然、大学ににもそんなクラブがあります。選手権では前もってテーマが与えられますが、どちら側に組するかは、大会当日に決められます。

ディベイトで大切なことは、もちろんいかに論理的に自分の意見を展開できるかどうかですが、スポーツ感覚の論争なので相手を言い負かすことに主点が置かれます。それには相手のどんな論法にも打ち勝つ弁舌と駆け引きの技術が必要です。自分の小さな否を認め、それをバネに相手を大きく切るという、まるで日本の剣道のように皮を切らせて骨(身だったかしら)を切る技が要求されるのです。

でも、究極のところ、いかに相手を言い包めるかで勝ち負けを競います。武士道のように、潔く罪を認めると、相手もあなたが素直に否を受け入れるなら、私もあえて罪を咎めることはしない、という態度はカケラもありません。ですから、自分が悪かったと全面的に認めることは自殺行為なのです。自分が認めた“否”には必ず責任がついてまわるのが西欧の社会です。

ディベイトで州や国のチャンピオンとなると、大変な名誉ですし、就職がとても有利になります。とりわけ弁護士になろうという学生にとって、このディベイトはとても大切な授業、トレーニングと考えられています。

もうお気づきだと思いますが、この授業、ディベイトでは自分が何を信じているか、何を正しいと思っているかという自分の信念が置き忘れられ、ともかく相手を言い負かすことに主点が置かれていることです。たとえ自分自身が間違っていると思っていても、自分の立場を有利にするためには、相手をヤッツケなくてはならないのです。

確かに実社会において(と偉そうなことを書いてしまいましたが、私自身、実社会、ビジネスや法曹の世界を全く知らないのですが、あえて言わせてください)、そのような態度、相手を言い負かす技術が必要なこともあるでしょう。結構、交渉には役に立つ技術なのでしょう。そこには暗黙の了解など入り込む隙がなく、たくさんの言葉を費やして相手を納得させるか、言葉ずくの力であきらめさせるかだけです。

アメリカの政治が悪くなっていく(と感じているのは私だけの意見ではありません。60%以上のアメリカ人がそう思っているのです)のは、決して自分の非を認めようとしない態度が原因の一つではないかと思っています。政治家の多くは、本当に自分の信じていることを主張し推し進めているのではなく、ただ単に自分の立場を有利に展開させるため、相手をヤッツケルための空論を、学生のディベイトのように、費やしているように見えるのです。“私は間違った判断をくだした。この責任はすべて私にある”と、ガッツのある態度を取る政治家、弁護士がいないのです。

ディベイトとしての技術は、言ってみれば些細なことで、大切なのは自分が何を信じ、それをどのような行動に移すかが、もっとも大切なことなのはここで書くのが恥ずかしいくらい当たり前のことなのですが。

日本に住んでいたとき、企業のスキャンダルが沢山あり、会社の偉い人たちがテレビカメラの前に勢ぞろいし、頭を下げ謝っている風景を何度も見ました。最初、私は日本人はなんと潔く自分の間違いを認め、素直に謝るのだろうと感動したほどです。しかし、それが余り頻繁に起こるので不思議に思い始めました。そして、頭を下げて謝った偉い人たち、その企業や役所がどんな責任を取ったのか、明確に事後処理した追跡記事がほとんどないことに気が付きました。せいぜい、その会社や役所の担当者がクビになるくらいのものです。私の目から見れば、そんなことはただ責任をその人に被せただけで、責任を取ったとは言えません。

ともかく頭を下げて謝ってしまえば、具体的な責任問題は頭の上を通りすぎていくとでも考えているようにしか思えません。“マイッタナー、早くマスコミの注目がほかに移ってくれないかなー、それまで頭を下げて待つことにするか”と、実際思っているかどうか分かりませんが、どうもそんな風に見えるのです。

ともかく頭を下げて謝ってしまえば、あとは時間が解決してくれるというのは、アメリカ的ディベイトとは全く逆の、日本的な論法技術なのかも知れませんね。

 

 

第15回:身分証明書