第6回:ヘスス・マルティネスの財宝 その1
アントニオ・ホセ・チャヴェスが殺されてから10年後、1853年にヘスス・M・マルティネスを隊長とする幌馬車隊が現在のダッジシティー(カンサス州)の近くで襲われた。
ダッジシティーはサンタフェ・トレイルの主要宿場で、パイオニアたちはここから南西に下り、オクラホマの西端を通り、テキサスの北をかすめ、ニューメキシコに入る。インディペンデンスからダッジシティーまでは合衆国の治安、警察権が比較的にではあるにしろ、行き渡っており、加えてダッジシティーの東ほんの2、3マイルには騎兵隊の駐屯地フォート・ダッジを設けてあった。
ダッジシティーは現在2万7,800人を抱える屠殺、牛肉パッケージ工場が主な産業の小都市だが、西部開拓時代にはその名を知られる西部の最前線だった。西部への幹線のサンタフェ・トレイルの主要中憩地だったし、鉄道がこの町まで来てからはテキサスからのロングホーン牛を東部に積み込む集積地になった。
ダッジシティーが西部の中心だった期間は非常に短い。バッファロー・ハンターが群がった。
それがおさまると、テキサスからロングホーン牛を何千頭も追ってカウボーイたちがやってきて、
無法の町の名を欲しいままにし、街には娼婦のたむろするサロンバーが何軒もあった。
(1875年撮影)
![6-02](images/PeaceCommission_s.jpg)
ダッジシティーの保安官、保安官補、町の“ピース・コミッション”(Peace Commission)の面々
いずれも西部史に名を残す人物が居並んでいる有名写真。
バッド・マスターソンは後列左から3番目、ワイアット・アープは前列左から2番目。
(1883年6月10日撮影)
西部を町や村をピックアップ・トラックを転がしていて、驚くのはどの町にも博物館があることだ。町が肩入れしている大きなものから、土地の古老がやっている極小規模のものもあり、ロッキーの山裾に移り住んでから、おそらく何十軒も見て回っただろうか。
地元の人にとってはそこの地方史が大切なのは分かるが、“パイオニア博物館”と銘打ったモノは、ヨソ者にとって全部似たり寄ったりで、ディスプレイも凡庸なため、やがて町の博物館巡りを止めてしまった。
とは言え、中にはユニークなモノもある。ここダッジシティーの博物館は、“ブーツヒル博物館”(boot hill;開拓時代の墓地を意味する)と名付けた、実際にダッジシティーの墓地だった所に、1800年台の古い建物を運んできて、ダッジシティーのメインストリートであった4番通りを再現しているのだ。
OK牧場の決闘で有名なツームストーンの町(アリゾナ州)は、決闘当時にそうであったように再現されてはいるが、すべて新築再現だが、ここダッジシティーのはそのまま持ってきたと言うのが売りなのだ。したがって、一つひとつの建物はえらく古く、ボロに近く小さくて狭い。この何町歩もある敷地を占めるブーツヒル博物館は個人が経営している、とは言え非営利事業だが…。
サンタフェの町から東に向かう者、主に交易者、メキシコ人たちにとっては、いよいよ敵対するアメリカの領土を横切ることになり、チャヴェス一行のようにならず者集団に襲われる可能性が高くなる。
今でこそ、メキシコとアメリカ合衆国の国境に見苦しい赤サビの浮いた鉄の高いフェンスを建設中だが、当時はどこが国境だという概念が乏しかった。パスポートコントロール、国境警備隊、出入国管理事務所、検問などは存在しなかった。
ヘスス・マルティネスは、西部、南西部の交易に長けた、穏和な小柄な男だった。カピタン・マルティネスと呼ばれ慕われ、かつ尊敬されてもいた。カピタンは陸軍では大尉を意味するが、同時に船長のように一つのグループの隊長を指した。確かに、ヘスス・マルティネスは隊長と呼ぶに相応しい大隊を率いていた。幌馬車は120車、引き連れている輸送隊員は82名もいた。ということは、馬、ミュール、順次殺し食肉にするための牛、羊の数も半端でなかったはずだ。
これだけ大きな幌馬車隊は西に向かうものも、東に交易のために向かうグループにしても最大級のものだった。野営のたびに幌馬車で円陣を組み、インディアンの襲撃に備えていた。だが逆に、それだけ大掛かりの幌馬車隊、しかも西部へではなくサンタフェから東に、合衆国の西部の門、窓口と言われていたインディペンデンスを目指しているのだから、交易の物資だけでなく、必ず財宝、それもとんでもない金額に及ぶ金銀を運んでいるに違いないと目されていた。
夏の強烈な暑さが草原を焼きつける頃だった。この界隈の夏は連日40度Cを越え、炎天下ではすべてを焼き尽くし、カラカラに乾燥させる。しかし、夜間は急激に気温が下がり、凌ぎやすくなる。
夜明け近く、幌馬車隊の犬が吠え始め、まだ明け切らない草原にインディアンの影が見え隠れしているのを見張りが見つけ、ヘスス・マルティネス隊長に報告し、ヘスス・マルティネスは即座に応戦対策を講じた。
隊員は予備の弾薬を身近に置き、円陣に防御を敷いた。ヘスス・マルチネスの隊員はまるで一つの連隊のように機能した。その朝の攻撃はまるで標的訓練のような容易さで近づいてくるインディアンを撃ち倒した。当然、インディアンどもは引き上げた。
我々の火力の恐ろしさ、力をインディアンどもに思い知らせてやった、だからもう攻めて来ないだろうと隊員たちは一安心したことだろう。ヘスス・マルティネス隊の被害は至極わずかだったが、インディアンの死者は多かった。
ところが、ヘスス隊の予想は大きく裏切られた。まだ視界の利かない夜明け前に2回目の攻撃を喰ったのだ。そして、夜明けと伴にインディアンどもは引き上げた。そのような攻撃が連続で6日間も続いたのだ。
ついに、ヘスス隊の弾薬が尽きる時が来た。
多勢に無勢、ヘスス隊82名は全滅したのだった。
このヘスス・マルティネス隊全滅事件は、地方史の好き者、宝探しの好事家の格好の対象となり、今ではこの襲撃に加わったインディアンは、シャイアン族、アラパホ族、キオワ族の混成部隊だと判明している。勇猛なコマンチ族ではなかった。
-…つづく
第7回:ヘスス・マルティネスの財宝 その2
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