第117回:銭湯エレジー
更新日2008/04/10
あなたはもう忘れたかしら
赤い手拭いマフラーにして
二人で行った横町の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸カタカタ鳴った・・・
学生や若い勤め人のほとんどや、まだまだ多くの所帯が、内風呂を持たずに銭湯を利用していた時代。この唄「神田川」が流行り、私が上京した昭和49年には、東京都内に約2,500件の銭湯があったそうだ。それが一昨年の平成18年には1,000件を割り込み、今は900件前後に減少した。
随分以前にも書いたが、もう900件しかないのかと考えるのか、まだ900件もあるのかと考えるのか、それは人によってまちまちだろう。都内で最も多く残っているところは大田区で、約70件あまり。所謂京浜工業地帯に位置しており、小さな町工場が建ち並ぶ場所がら需要も多いのだろう。東京都浴場組合の中でも、大田区の銭湯の方々は発言権が少し大きいようだ、と聞いたことがある。
入浴料金も、先ほどの昭和49年には75円だった。私はうっすらと記憶があるが、当時銭湯に行っていた時分、あるお客が、「いきなり20円も上げるのはあこぎだ」と言っていた。
今回、これを書くにあたり、「入浴料金の変遷」というのを見てみたが、確かに昭和23年以降、昭和48年までは1円から8円までの一桁の上げ幅だったのに対し、昭和48年の55円に比べ急激な値上げだったようだ。
さらに昭和50年は25円値上げの100円、3桁時代への突入である。その後、平成9年の385円までは毎年上がり続ける。しかし、利用客の減少もあって各銭湯が苦しいながらも据え置きを決め、385円が3年間続き、その後平成12年に400円に上げたが、それも6年間は値上げをせず、平成18年に430円になって、今はこの価格である。
私は小学校の1年生ぐらいまでは内風呂がなく、約6年間、その後上京してからは約9年間、合わせて15年ぐらいは銭湯通いをしていた。
いろいろな銭湯に入ってみた。冒頭に書いた唄「神田川」に影響を受け、高田馬場の川沿いにある銭湯に、ママゴトのような生活をしていた女の子と一緒に通ったのも、もう30数年前の遠い思い出だったりする。
中目黒のアパート近くの銭湯は、番台の高さが割と低くて、風呂代を支払うその一瞬に隣を伺う技術で、男友達同士鎬を削り合ったこともあった。今思えば、馬鹿馬鹿しくも懐かしい話である。
よくカランから石鹸箱に水を受けて飲んだ。火照った身体には冷たくてとても旨かったが、口の中に石鹸臭い香りが少し残ったものだった。「『風呂上がりはコーヒー牛乳』と相場は決まっているんだ」と、友達はステレオタイプに主張したが、私は頑なにフルーツ牛乳を好んで飲んだ。
小さな赤ん坊も、皺で覆われたおじいさんも、紋紋を入れたお兄さんも、みんなが一緒に裸で入浴を楽しんでいたと思う。
私の店の程近くにも銭湯があって、そこの社長が店にも時々顔を見せてくださる。とても面倒見のよく、隣の町会であるにも拘わらず、私たちの町会で行なう歳末の餅つきには出張ってきて、骨身を惜しまず先頭になって立ち働かれるような方だ。
その社長が、ある日面白い話を聞かせてくださった。銭湯の風呂を沸かすのには、やはり木材が一番だそうで、できうる限り各方面に渡りをつけ、廃材を集めてきて薪として使う。ところが、その廃材が常に確保されているわけではないので、その場合はやむを得なく、重油を燃料にする。風呂釜のところで、燃料の切り替えができるそうだ。
「ところが常連さんにはすぐわかっちゃうんだよね。『オヤジ、今日は油使ってたろう、湯が随分硬かったぞ』って言われるんだよ」。
しみじみとした話である。
その銭湯も、半年ぐらい前についに暖簾を降ろしてしまった。
「マスター、中学卒業して福島からこっち出てきてから50年やったよ、50年。もういいよね」。
今年の2月ぐらいまでは建物はそのままだったが、3月頃から解体屋さんが入り、少しずつ取り壊されていった。高く聳え立っていた煙突も、数日の間に足場が組まれ、てっぺんから徐々に切り崩された。その様子はちょうど映画の『ALWAYS~三丁目の夕日』の東京タワーが少しずつ築き上げられていくのとは真反対で、とても哀しい思いがした。
そして、今は何もかもが片付けられ、きれいな空き地になっていて、思いの外その敷地が広かったことに、少し驚かされたのである。
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