■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
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第51回:お国言葉について ~
第100回:フラワー・オブ・スコットランドを聴いたことがありますか
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第101回:小田実さんを偲ぶ
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか
第103回:ラグビー・ワールド・カップ、優勝の行方
第104回:ラグビー・ジャパン、4年後への挑戦を、今から
第105回:大波乱、ラグビー・ワールド・カップ
第106回:トライこそ、ラグビーの華
第107回:ウイスキーが、お好きでしょ
第108回:国際柔道連盟から脱退しよう
第109回:ビバ、ハマクラ先生!
第110回:苦手な言葉
第111回:楕円球の季節
第112回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(1)
第113回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(2)
第114回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(3)
第115回:サイモンとガーファンクルが聞こえる(1)
第116回:サイモンとガーファンクルが聞こえる(2)

■更新予定日:隔週木曜日

第117回:銭湯エレジー

更新日2008/04/10


あなたはもう忘れたかしら
赤い手拭いマフラーにして 
二人で行った横町の風呂屋 
一緒に出ようねって言ったのに 
いつも私が待たされた 
洗い髪が芯まで冷えて 
小さな石鹸カタカタ鳴った・・・

学生や若い勤め人のほとんどや、まだまだ多くの所帯が、内風呂を持たずに銭湯を利用していた時代。この唄「神田川」が流行り、私が上京した昭和49年には、東京都内に約2,500件の銭湯があったそうだ。それが一昨年の平成18年には1,000件を割り込み、今は900件前後に減少した。

随分以前にも書いたが、もう900件しかないのかと考えるのか、まだ900件もあるのかと考えるのか、それは人によってまちまちだろう。都内で最も多く残っているところは大田区で、約70件あまり。所謂京浜工業地帯に位置しており、小さな町工場が建ち並ぶ場所がら需要も多いのだろう。東京都浴場組合の中でも、大田区の銭湯の方々は発言権が少し大きいようだ、と聞いたことがある。

入浴料金も、先ほどの昭和49年には75円だった。私はうっすらと記憶があるが、当時銭湯に行っていた時分、あるお客が、「いきなり20円も上げるのはあこぎだ」と言っていた。

今回、これを書くにあたり、「入浴料金の変遷」というのを見てみたが、確かに昭和23年以降、昭和48年までは1円から8円までの一桁の上げ幅だったのに対し、昭和48年の55円に比べ急激な値上げだったようだ。

さらに昭和50年は25円値上げの100円、3桁時代への突入である。その後、平成9年の385円までは毎年上がり続ける。しかし、利用客の減少もあって各銭湯が苦しいながらも据え置きを決め、385円が3年間続き、その後平成12年に400円に上げたが、それも6年間は値上げをせず、平成18年に430円になって、今はこの価格である。

私は小学校の1年生ぐらいまでは内風呂がなく、約6年間、その後上京してからは約9年間、合わせて15年ぐらいは銭湯通いをしていた。

いろいろな銭湯に入ってみた。冒頭に書いた唄「神田川」に影響を受け、高田馬場の川沿いにある銭湯に、ママゴトのような生活をしていた女の子と一緒に通ったのも、もう30数年前の遠い思い出だったりする。

中目黒のアパート近くの銭湯は、番台の高さが割と低くて、風呂代を支払うその一瞬に隣を伺う技術で、男友達同士鎬を削り合ったこともあった。今思えば、馬鹿馬鹿しくも懐かしい話である。

よくカランから石鹸箱に水を受けて飲んだ。火照った身体には冷たくてとても旨かったが、口の中に石鹸臭い香りが少し残ったものだった。「『風呂上がりはコーヒー牛乳』と相場は決まっているんだ」と、友達はステレオタイプに主張したが、私は頑なにフルーツ牛乳を好んで飲んだ。

小さな赤ん坊も、皺で覆われたおじいさんも、紋紋を入れたお兄さんも、みんなが一緒に裸で入浴を楽しんでいたと思う。

私の店の程近くにも銭湯があって、そこの社長が店にも時々顔を見せてくださる。とても面倒見のよく、隣の町会であるにも拘わらず、私たちの町会で行なう歳末の餅つきには出張ってきて、骨身を惜しまず先頭になって立ち働かれるような方だ。

その社長が、ある日面白い話を聞かせてくださった。銭湯の風呂を沸かすのには、やはり木材が一番だそうで、できうる限り各方面に渡りをつけ、廃材を集めてきて薪として使う。ところが、その廃材が常に確保されているわけではないので、その場合はやむを得なく、重油を燃料にする。風呂釜のところで、燃料の切り替えができるそうだ。

「ところが常連さんにはすぐわかっちゃうんだよね。『オヤジ、今日は油使ってたろう、湯が随分硬かったぞ』って言われるんだよ」。

しみじみとした話である。

その銭湯も、半年ぐらい前についに暖簾を降ろしてしまった。
「マスター、中学卒業して福島からこっち出てきてから50年やったよ、50年。もういいよね」。

今年の2月ぐらいまでは建物はそのままだったが、3月頃から解体屋さんが入り、少しずつ取り壊されていった。高く聳え立っていた煙突も、数日の間に足場が組まれ、てっぺんから徐々に切り崩された。その様子はちょうど映画の『ALWAYS~三丁目の夕日』の東京タワーが少しずつ築き上げられていくのとは真反対で、とても哀しい思いがした。

そして、今は何もかもが片付けられ、きれいな空き地になっていて、思いの外その敷地が広かったことに、少し驚かされたのである。

 

 

第118回:さまよい走る聖火リレー