■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!
第55回:疾走する15歳
第56回:夏休み観察の記
第57回:菅平の風
第58回:嗚呼、巨人軍
第59回:年齢のこと
第60回:「ふりかけ」の時代
第61回:「僕のあだ名を知ってるかい?」の頃
第62回:霜月の記

■更新予定日:隔週木曜日

第63回:いつも讃美歌があった

更新日2005/11/17


街はあわただしく、もうクリスマス化粧を装い始めている。いつのまに、みんなはこんなにも早く季節の先取りをするようになったのか。一年があっというまだね、と頷き合いながら、そのスピードに自らが拍車をかけているようだ。

クリスマス・ツリー、赤と緑のクリスマス・カラーの飾り付け、そしてクリスマス・ソング。もうずっと耳慣れている曲がほとんどで、「ホワイト・クリスマス」「ジングル・ベル」「赤鼻のトナカイ「サンタが街にやってくる」などのポピュラー・ソングが流れている。

そして、それらの他に「きよしこのよる」「もろびとこぞりて」「まきびとひつじを」「あらののはてに」などの讃美歌グループも健在で、根強い人気を誇っている。同じクリスマス・ソングでも、ポピュラーと讃美歌の根本的な違いは、前者はクリスマス行事そのものを曲にし、後者は飽くまでキリスト誕生を讃美した曲になっているという点だ。

私は、以前にも書いたようにクリスチャン・ホームで育ったために、クリスマス時期に限らず、文字通り讃美歌を子守歌代わりにして育った。両親が、ともに長野県の富士見高原教会の日曜学校(教会学校)の教師であることから知り合い、同教会で結婚式を挙げているので、私の教会通いは、あがないようのないなかば宿命のようなものだった。

(教会学校の教師というのは特別に資格のいるものではなく、洗礼を受けた者で、牧師が認めた人であればだれでもなれる。小、中学校の子どもたちに、聖書を読み聞かせたり、讃美歌を教えたりする役割を担う人たちだ)

物心つく前から、両親に抱かれて礼拝に出席しており、高校三年生までの18年間は毎週日曜日ほとんどと言っていいほどその生活が続いたから、夥しい数の讃美歌を聞き、また歌ったことになる。私は今でも、たとえば料理をしているときなどそのなかのいくつかをくちずさんだり、歯笛を吹いたりはしている。

よく「音楽にはリズム、メロディー、ハーモニーの三要素があるけれど、Kさんの指向は圧倒的にメロディー重視なものが多いですよね」と言われることがある。最近もその言葉を耳にした。邦楽、洋楽、あるいは、トラッド、ジャズ、ロック、などのジャンルを越えて私はメロディアスな曲を好んでいるが、これも原点は、やはり讃美歌なのだろう。

ところで、クリスマスのものの他にも、クリスチャン以外の方々が一度は耳にして印象に残る曲は何曲かあると思う。私は、その代表は讃美歌312番「いつくしみふかき」ではないかと思っている。

(讃美歌は歌い出しがそのタイトルになっている。そして詞の概念ごとに、例えば先のクリスマスのものであれば「降誕」、他にはキリストの生涯に沿って「苦難」「復活」「再臨」などの、あるいは礼拝の時間帯により「朝」「夕」などといったグループ分けがなされており、順に番号がつけられている。例えば、「あらののはてに」は讃美歌106番、「もろびとこぞりて」は讃美歌112番というように)

「いつくしみ深き友なるイエスは 罪(つみ) 咎(とが) 憂(うれ)いをとり去りたもう こころの嘆きを包まず述べて などかは下(おろ)さぬ負える重荷を」

キリスト教式の結婚式で、日頃讃美歌にはなじみのない方々にも歌いやすいため、たいがいは歌われる曲だ。やはり、この美しいメロディーはクリスチャンにも最も人気のある曲のようで、私もいろいろな教会で歌った経験がある。

演出家、映画監督、作詞家、作家と、マルチな活躍で知られる久世光彦氏も著書『マイ・ラスト・ソング』の中で、この讃美歌312番を取り上げている。文部省唱歌「冬の星座」、同じく「星の界(よ)」とこの讃美歌を混同してしまうという話から、稀代のレコード・ディレクターが、この讃美歌を女性コーラスが敬虔に合唱するのをバックに歌われる演歌「裏町マリア」という曲を作ったという興味深いエピソードまでを書き綴っている。

そして終わりの方で「日ごろ神を信じているわけではないのに、私はこの歌に神を感じるのである」とまで言い及んでおり、クールな論客という印象の氏をしてここまで言わせるのは、それだけこの讃美歌に魅力があるということなのかもしれない。

大型客船タイタニック号が、沈みゆくことを覚悟した楽隊が奏でる讃美歌320番「しゅよみもとに」も多くの人に知られる曲だろう。大ヒットしたデカプリオ=ウィンスレット共演のジェームズ・キャメロン版(1997年)でもこのシーンが印象的に描かれていた。

また、白黒の英国映画「SOSタイタニック」(ロイ・ウォード・ベイカー監督作品、1958年)では、映画全体を通して、音楽はこの楽隊の演奏のみであったことから、この讃美歌が殊に効果的だった。私の高校の英語の教科書にも、このシーンの逸話が掲載されていた記憶がある。
「主よみもとに近づかん のぼる道は十字架へ ありともなど悲しむべき 主よみもとに近づかん」

これも、キリスト教式の葬儀で多く歌われる曲だ。そう考えると、クリスマス以外の讃美歌は、冠婚葬祭の時に歌われるために、一般の方々に知られているものが多いようだ。

故郷に帰るときに教会には時々顔を出していたが、最近ではほとんど足を運んでいない。おそらく、オルガンの演奏で讃美歌を歌わなくなってから3年は経過しているだろう。今回このコラムを書くために自分の讃美歌を探したが、聖書とともにどこにしまいこんだのか見付からなかった。青春の時まで拠り所にしていたものが、今ではなくても支障なく生活できていることを改めて感じ、少し寂しい心持ちになった。

 

 

第64回:師かならずしも走らず