第11回:フランコ万歳! その11
拘置所の夜は悲惨だった。一枚だけの荒い毛布には南京虫がゴマンと生息しているであろうし、硬いタイルのベンチのようなベッドにも、壁にも恐怖の南京虫が潜んでいるだろうし、どこにも横になれる場所がないのだ。私は夜中、狭い檻の中を行ったり来たり、屈伸をしたり、壁に体が触れないようにタイルのベッドに腰掛けたりして過ごしたのだった。
牢番は定期的に巡回していた。ドアに穿った鉄格子の光取りから、懐中電灯でお前たちは何をやっているのだ、と内部を照らすのだった。
コンクリートの地下階は音が実に良く響き渡る。スペインのハヤリ歌なのだろうか、誰かがコブシを効かせた節回しで歌い出し、それにオレ、オレッと、他の独房からの合いの手が入るのだ。私の耳にはどれもフラメンコ調に聞こえる。夜の拘置所はなかなか賑やかだった。
それに加えて、一晩中、叫ぶように詰問する怒鳴り声、恐らく酷くブン殴っているのだろうか、泣き喚く絶叫が響き渡るのだった。それは体の心底から搾り出すような叫び、私の背筋を凍らせるような声だった。筋の通った目的ある尋問ならば、階上で専門の刑事たちがやるはずだから、ただ牢番が退屈しのぎに地下に閉じ込められた我が同胞をイジメているのだろうか。
それにしても、怒髪天を突くような詰問者の声、収監されている同胞たちの絶叫は真に迫っており、鳥肌を立たせるのに十分なほど激しかった。よく聞くと、拷問を受けているのが複数で、女性も混じっているようだった。それが一晩中続くのだった。そんな絶叫に負けじとばかり、フラメンコ歌手、としておくが、良く通る声で歌いまくるのだった。
キチガイ、精神異常者を作り上げるのは簡単なことだと思った。私自身、こんなところに1ヵ月もいたら、保証付きのキチガイになっただろう。
それが毎晩、私が収容された期間中続いた。
地下の拘置所(イメージ写真で本文とは無関係)
拷問の叫び声があまりに酷く、真に迫っており、一晩中続くので、もしかすると、これはテープに録音したもので、ただ私たちを眠らせないためにフル・ボリュームで流しているのはないかと思ったほどだ。
どちらにしろ、バックグラウンド・ミュージックとは逆の効果、収監者たちを眠らせず、神経を高ぶらせ、夜明けとともに開始される尋問に素直に答えないとこうなるぞ、という程度の効果はあった。私自身も神経が相当参りかけていたと思う。
朝飯、配給の時間が待ち遠しく、薄いカフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)とマリアの尻拭きビスケットを受け取る頃、あちらこちらの独房で鉄のドアがガンガン叩かれ、「セニョール、トイレ!」の叫び声が響き渡る。牢番のセニョールさんの大忙しの時間帯だ。独房にはトイレのタグイがないからだ。
習慣、慣れの問題だと思うが、看守が傍にいると小便の方はともかく、大便はしにくい、出てこないものだと知った。臭い付き合いをしなければならない看守、セニョールも嫌な仕事だとは思うが、こちらは呼んでもなかなか直ぐに来てくれない便所当番のセニョール看守がやっとドアを開け、手錠を掛け、ノロノロと便所まで行進する間、暴発しそうになるのを、コラエにコラエ、ホウホウの体で便器に座り込むのだが、セニョール看守が脇にいると、それまでの便意がウソのようになくなるのだ。
アウシュビッツ払い下げのブリキのカップに水を入れ、それで尻を洗い流し、マリアのビスケットで肛門界隈をヌグイ、パンツ、ジーンズを引き上げ、手錠の一方を鉄の輪から外してもらい、それをセニョール看守は自分の手首に嵌め、我が個室まで同行していただくのだった。
おかしなことに、鉄の扉が盛大な音をたてて閉まったとたんに、また便意が湧いてくるのだ。それを2度3度と繰り返すことになる。セニョール看守もうんざりした表情をモロに顔に出し、「オメー、またかよ…」とスペイン語で怒鳴りつけるのだった。そのうち、呼べど叫べど、鉄のドアをガンガン叩こうが無視されることになってしまった。
最初に地下の拘置所に入れられた時、異様な臭気が鼻を突いたのは、このお部屋で皆さま、垂れ流していたからだ…と確信した。それに西欧人独特の野生の動物のような体臭が混ざり合い、それが壁や床に染み込んでいたのだ。
当時、スペインにもデオドラント(制汗剤)はあったと思うが、彼らの体臭はオエッとくるほど強烈で、エアコン、換気など全くない地下室では、とりわけ夏には耐えがたいまでに臭気が篭った。2メートル四方ほどの狭い地下室の換気はドアに付いている覗き窓だけだったから、糞尿と入り混じった彼らの体臭は想像を超える強烈さだった。顔面にスカンクのスプレーを浴びたような、体全体に染み込んでくるような臭いだった。
イボイボの付いた鉄球で拷問を受け、垂れ流してズボンの前面を濡らしていたマキシモも同じ地下牢のどこかにいるのだろう。そんなマキシモに誰かがズボン、パンツを差し入れ、着替え、毎日新鮮な気持ちでお取調べを受けていたとは考えられない。あのまま、小便垂れ流し、おそらく大便の方も漏れるに任せた状態で地下牢に入れられていたのだと思う。マキシモと同じように扱われた同胞、垂れ流し組がゴマンと出入りしていた地下室が清潔であろうはずがない。
しかし、ありがたいことに人間の嗅覚はすぐにダメになるのか、鈍くなり、感じなくなるものだ。
スペインの方言分布図(マドリッドはカスティリャーノ)
二日目だったか三日目だったか、今でははっきり思い出せないが、治安警察の方も、“このチニート(chinito;中国人の蔑称:東洋人はすべてチニートと蔑称されていた)、カスティリヤーノ(マドリッド地方のスペイン語)がほとんど話せないアホだ。しょうがないから英語のできる尋問官を連れてくるか…”ということになったのだろう。20代半ばの英語使い二人組が尋問に当たることになった。
赤毛の方が質問し、栗毛の方が記録係だった。当初、彼らは、私がスペイン語ができるのに、分からないフリをして、話さないと思っていたようで、赤毛は、「いいか、俺を騙そうなんて思うなよ、お前がカスティリヤーノを話せることは分かっているんだ。俺たちを馬鹿にするな、見くびるな!」と猛烈な英語とスペイン語で喚き散らし、センテンスごとに、後ろ手錠を掛けられた私のわき腹、頬をパンパンと小突くように叩くのだ。コイツは本当にスペイン語が駄目だと悟らせるのに午前中いっぱいかかったと思う。
そうかと言って、私の英語も自慢できるモノではなく、役に立たない受験英語を元手に、スコットランドの10ヵ月でどうにかヨチヨチ歩きができる程度だった。スパングリシュ(スペイン英語)にはスコットランドでの同居人、パブロのおかげで耳慣れしているとはいえ、話す方はレベルの低いジャパングリシュ(日本英語)だった。
赤毛がイライラする理由は分かる。しかし、言葉というのは相手に分からせるために、一つの単語をゆっくり繰り返し、また別の言葉に置き換えてやっとどうにか疎通が成り立つものだ。ところが、赤毛は私に通じないとみると、同じことを同じ言い方でただ声を大きくし、ガナルように声を張り上げるのだった。ボリュームを上げたからといって、言葉は通じるものではない。だが、赤毛は聾唖者に話すように大声で叫べば通じるとでも思っていたのか、片言の外国語で会話する時、身に付いた自然に出てくる条件反射なのだろうか、ガナリ立てた。
そして、一つの文章ごとに、「コンプレンデス?(comprendes) アンダスタンド?(understand) 」、“オメー、分かったか?”を繰り返し、私のわき腹、頬っぺたを小突くのだった。
第12回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 1
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