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■西部開拓時代の伝承物語~黄金伝説を追いかけて

 

第2回:ドン・アントニオ・ホセ・チャベスの財宝 その1

更新日2024/04/25

 

サンタフェ・トレイルは西部開拓史に重要な役割を果たした。
オレゴン・トレイルと同じ出発地点、現在ミズーリー州のインディペンデンスを出発し、当時メキシコ領であったサンタフェまで900マイルの幹線道路だった。

街道といっても舗装されているわけではなく、雨が降ればドロ道になり、冬場はほとんど通行不可能になった上、勇猛なコマンチ族が襲撃してきた。それでもサンタフェに着きさえすれば、そこからカリフォルニアへ、あるはメキシコシティーへと繋がり、交易する者にとっては旨みがあった。いわば、それだけの危険を犯す価値があった。
 
北西部のオレゴン・トレイルは東から西に向かう開拓民、そうでなければ一旗組の金鉱探しが多く、言ってみれば東から西への一方通行だったが、サンタフェ街道は西から東、サンタフェからミズーリー州のインディペンデンスへ向かう交易目的の者も多かった。

というのは、鉄道が敷設されるまで、ビーバー、狐、バッファローの毛皮、当時、合衆国のドルより信用度が高かったメキシコの銀貨、ペソ、それにミュール(馬とロバの掛け合わせ。西部劇に登場するクオーターホースほどスピードはないが、粗食に耐え、扱いやすい)をインディペンデンスに持ち込めば西へ向かう開拓民たちが争うように買った。帰りには、主に銃器、まだ先込め式だったが、ライフル、ピストル、そのための弾薬、そして農機具を積み込めば、それがまたメキシコで飛ぶように売れた。

サンタフェ・トレイルを開いたのは、公式的には1822年にウィリアム・ベックネールということになっているが、それ以前にも冒険的な一旗組ショーバイ人が小規模ながら行き来していたと思われる。ルートも一本ではなく、インディペンデンスから西南西に平原を横切るところまでは一本だが、フォート・ザラー(Ft.Zarah)からは二手に分かれ、さらにフォート・ダッジ(Ft.Dodge)からは何本ものルートが絡み合いメキシコ領に入り、フォート・ユニオン(Ft.Union)からは一本になり、サンタフェに至る。

Santa Fe_stone 
サンタフェにある石碑
サンタフェトレイルの終点とある

Santa Fe_sign
この馬車の車がサンタフェ・トレイルのマーク 

インディペンデンスが西部への玄関になっていたのは、そこまでのルートが確立されていたのと、いち早く鉄道が敷設されたこと、そして目の前のミズーリー川を渡る、渡し船があったこと、また南からの入移植者はミシシッピィー川を遡り、セントルイスからミズーリー川に入り、インディペンデンスにはいる船が運行されていたことによる。

サンタフェの方はそこから文字通り東西南北に街道が走っており、カリフォルニアに向かうにはビール街道があり、南下するにはチハウハウ・トレイルが交差していたし、北のデンバー方向に向かうならサングレ・デ・クリスト連山の東裾を走っているチェロキー・トレイルがあった。サンタフェは南西部の大きな受け入れ口になっていた。

サンタフェは現在、アメリカ合衆国のニューメキシコ州にあるが、1848年まではメキシコ領だった(メキシコーアメリカ戦争を終え、グアダルーペ・イダルゴ条約でアメリカの領土になった。領土から州になったのは1912年)。それまで、サンタフェは広大な北メキシコの経済の中心だった。

 

ヌエヴァ・メヒコを牛耳っていたのは五つの豪族で、その一つがチャヴェス一家だった。インディペンデンスへ向かうキャラバンを仕立てたアントニオ・ホセ・チャヴェスは、知事を務めたことがある大富豪フランシスコ・ハヴィエール・チャヴェスの息子だった。従って、インディペンデンスに運ぶ交易物資も半端でなかった。チャヴェス一家揚げての支援があったことは想像できる。
 
2台の幌馬車に毛皮を満載した上、55頭ものミュールを引いていた。これだけのミュールを集めたというだけでも、チャヴェスの財力が知れる。その上、毛皮の下にはメキシコペソ銀貨、貴金属、金塊を隠し持っていた…と伝えられているのだが…。

サンタフェを出発したのは1843年の2月だ。40度を超える大草原の夏の猛暑を避けるために、晩冬、早春に出発したのだろう。結果、それが裏目に出るのだが…。
 
道半ばのカンサス州のベンドまで大禍なく進めたのは、コマンチ族と何らかの協約があったのではないかと思う。例えば、帰路にライフル何丁と弾薬を渡すから、襲撃してくれるな…というような。ともかく、ベンドに着いた時、予想外の春の猛吹雪に見舞われたのだ。

great-bend
ベンドはアーカンソー川が大きく曲がり、東から南へ流れを変える地点
現在、グレート・ベンドと呼ばれ、人口1万5,000人を抱える郡都

私たちは、連れ合いの実家のあるカンサスシティー(インディペンデンスはカンサスシティーの東20キロ)幾度となく、恐らく50回ほどはロッキー越え、そしてグレート・プレインを渡っているが、吹雪や吹き溜まりでニッチもサッチもいかず、進退極まり、立ち往生させられたのは、ロッキー越えでなく、カンサスの大平原でのことだった。大平原の方が天候が極端に走り、しかも遮るものが全くないので吹き荒れるのだ。
 
準備万端、用意周到のチャヴェス一行も、春の猛吹雪までは読み切れなかった。彼らはベンドに閉じ込められ、動きが取れなくなったのだ。普通ならベンドまで来ればあとは平原を横切るだけで、もう一息の地点まで来たのだと安心するところだ。ところがそうは自然、天候が許さなかった。

いくらミュールが粗食に強いといっても、飼葉、牧草は必要だ、それまで、1日の行程の後、草原に放つだけで良かったのが、深い雪に覆われ、ミュールの餌が全くなくなってしまったのだ。ミュールは次々と餓死し始めた。

チャヴェスは部下7名とともに、どうにか東隣りのライス郡まで来たところで、進行を諦め、この交通量の多いはずのサンタフェ街道で他のキャラヴァンを待つことにしたのだった。その時点で、チャヴェスには5頭のミュールしか残っていなかった。これでは、雪が溶け泥んこになった踏み付け道を進むことはできない。当時の旅行者の携帯食料は乾燥させた豆類と乾燥肉だったが、チャヴェスは十分な食料を持っていたのだろう、それに加えて、死んだミュールの肉も多量にあったことだろう。

-…つづく
 


第3回:ドン・アントニオ・ホセ・チャベスの財宝 その2

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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