■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!
第55回:疾走する15歳
第56回:夏休み観察の記
第57回:菅平の風
第58回:嗚呼、巨人軍
第59回:年齢のこと
第60回:「ふりかけ」の時代
第61回:「僕のあだ名を知ってるかい?」の頃
第62回:霜月の記
第63回:いつも讃美歌があった
第64回:師かならずしも走らず
第65回:炬燵で、あったか
第66回:50歳になってしまった
第67回:もう一人のジャンプ選手と同級生の女の子のこと

■更新予定日:隔週木曜日

第68回:さて、何を食べようか~お昼ご飯のこと

更新日2006/02/16


お昼ご飯について考えてみよう。私は50歳になったばかりだから、365日×50年=18,250日、赤ん坊時代を除くと、約1万7千食のお昼ご飯を食べたことになる。それならば朝夕食も同じくらいではないかという話になるが、朝は食べなかったり、夜は飲むときのつまみ程度で食事とは言えないことも多々あったりするから、やはり昼食の回数が最も多いのだと思う。

長野県の小学校時代の給食。これは店でもお客さんとときどき話題になるが、私たちは典型的なコッペパンと脱脂粉乳の時代だった。食器はアルマイト製で、ワンプレート、ワンボウルのみである。プレートの方は、コッペパン、ジャムまたはマーガリン、おかずと、それぞれの置き場所が仕切ってあった。ボウルは脱脂粉乳用の容器。ごくたまに、ソフト麺とカレーを入れるのに使われていた気がする。そして、先割れスプーンである。

とにかく、あの頃のコッペパンは大変な代物だった。少し放置しておくと見る見る固くなっていって、一日置いていたりしているとカチンカチンになり、それで頭を叩かれると本気で痛かった。病気で学校を休んだときなど、近くに住む同級生が家まで給食のパンを届けてくれるのだが、よほど食べるものに困っている家庭でない限り、正直ありがた迷惑だった記憶がある。

脱脂粉乳については、ただただまずいものだという記憶しか残っていない。どうしても苦手な子に、とても厳しい担任の先生が特訓をくり返し、力ずくで飲めるようにした。その後、その子が「うまい、うまい」と言って積極的に飲んでいる表情は、何かいびつに歪んでいるように見えた。今考えると、彼はその時何かを「諦めた」のだと思う。

名古屋の小学校に転校すると、コッペパンが食パンのスタイルに変わっていて、「さすが都会だ」と感じたが、固くなっていく速度はどちらも同じようだった。

私の通った名古屋の中学校には給食がなく、弁当持参か購買でパンを買って食べていた。人気のハムパンは、少し遅れて行くと売り切れになってしまったため、食いしん坊の男子生徒は、みな4時間目の授業が長引くことを極端に嫌った。

蛇足だが、その中学は毎日「牛乳」の支給だけはあった。最初の支給の時、牛乳瓶に入り冷たく冷えて出てきた飲み物を、小学校の6年間の脱脂粉乳からようやく解放された思いで、みんなは大歓迎した。それも口にする寸前までの話だった。口にした瞬間みんなは「騙された」ことを知る。中には吐き出す生徒もいた。牛乳瓶の中に入っていたのは、よく冷えた脱脂粉乳。私は、後にも先にもこれほどまずい飲み物を飲んだことがない。

高校に入ってからも、弁当と購買の日々が続く。これは少し残念なことだが、私の母は弁当を作ることがあまり好きな方ではなかった。だから多彩ではない弁当を持たせてもらうよりも、パンなどを購入する方が多かった。もっともその頃は食べ盛りなので、クラブ活動の後、学校近くの蕎麦屋によく通ったりもしていた。

東京に出てきて、社会人になり福祉の仕事をしていた頃は、とんでもない薄給で、かなり質素な昼食だった。毎日、5歳年長の上司とパン屋まで行き、パンを二つだけ買って(ジュースなどの飲み物は購入せずに)、職場に戻り、お茶と一緒に食べた。ものの3分もしないで食事は終わってしまった。今考えても、かなり寂しい昼食風景だった気がする。

メーカーのサラリーマンになってからは、最初は職場で弁当をとっていたが、デスクワークが多かったので、昼食ぐらいは外に行きたかったために外食にした。職場が築地ということもあり、食べる場所には事欠かなかった。

一度、毎日違うところに行って食べたとしたらどのくらい持つだろうということで、後輩と試してみたことがある。3ヵ月を過ぎても、まだまだ行くところがあった。そのうちに、「あの店の定食また食べてみたいけど、今度いつ行けるのだろう」とお互い悲壮感のある話になってしまったので、その試みは止めてしまった。おそらく、そんな話にならずにずっと続けていたら、半年と言わず、一年は持ったのではないか。

今の生活では、私は昼頃まで眠っているため、時間帯では昼食時に食べるものを「お昼ご飯」と言えるのかどうかは微妙だ。ただ、同居している義母とできるだけ一緒に食事しようとしているので、彼女に合わせればやはりお昼ご飯ということになる。日頃、あまり話し合う時間を持たない分、お昼は大切なコミュニケーションの場だと考えているのだが、最近は寝坊傾向にあり反省している。

考えてみれば、今の仕事に就いてからは人と一緒に食事をすると言うことがめっきり減ってしまった。「昼食」は義母と食べることができるにしても、店を開ける前の食事も、帰ってからとる食事も、どちらも一人である。「孤食」の人が増えてきた、嘆かわしいですね、と店でよくお客さんとお話しするが、何のことはない自分自身がそういう生活をしていた。

学校での給食、うまいのまずいのと言いたいことを勝手に言いながら、大騒ぎして食べていたのは、今にして思えば幸せな時代だったかも知れない。

 

 

第69回:さて、何を飲もうか