■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
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第51回:お国言葉について ~
第100回:フラワー・オブ・スコットランドを聴いたことがありますか
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第101回:小田実さんを偲ぶ
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか
第103回:ラグビー・ワールド・カップ、優勝の行方
第104回:ラグビー・ジャパン、4年後への挑戦を、今から
第105回:大波乱、ラグビー・ワールド・カップ
第106回:トライこそ、ラグビーの華
第107回:ウイスキーが、お好きでしょ
第108回:国際柔道連盟から脱退しよう
第109回:ビバ、ハマクラ先生!
第110回:苦手な言葉
第111回:楕円球の季節
第112回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(1)
第113回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(2)
第114回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(3)

■更新予定日:隔週木曜日

第115回:サイモンとガーファンクルが聞こえる(1)

更新日2008/03/13


I君は、とても真面目で熱心な柔道部員だった。練習を休むことや、開始時刻に遅れることは、彼には無縁のことだった。K高校の、放課後の武道館には必ず毎日、I君がビッショリと汗をかいて、稽古に打ち込んでいる姿を見ることができたのだ。

翻って、私はかなりいい加減な柔道部員だった。どんな理由をつければ練習をサボれるのだろうか、とそんなことを考えるのに毎日腐心していた。ところが、なかなかよいアイデアが浮かばず、いつも屈託した想いで、仕方なく武道館に足取り重く通っていたのだ。

その姿勢の違いは、当然技の習得の違いに如実に現れ、I君は昇段試験を堅実にパスしていったが、私はなかなか通らなかった。そんななかで、彼は決して驕ることなく、己の成績は控えめに捉え、私がうまくいかなかったことに対しては、心を砕いて真剣に励ましの言葉を贈ってくれた。

彼と私とは自転車通学で、帰り道も途中までは同じだったので(私の通学距離は、片道約7㎞ほどだったが、彼の家はそこから5㎞ほど先にあった)、いつも一緒に帰り、いろいろな話をした。

I君は、柔道に対する姿勢に止まらず、とにかく真面目一筋の男だった。おそらく当時の高校一、いや県下でもナンバーワンの純情青年だったのだ。朝は新聞配達をした後に学校に通っており、授業中の学習態度も真面目そのもの、前述の通りクラブ活動もキッチリとこなしていた。当然、学業成績も優秀で、常にクラスの上位にいたようだ。

ある日の帰り道、めずらしく音楽の話になった。その頃、私はポピュラー音楽を少し聴き始めていた時期だった。この堅物男は音楽になど関心がないのだろう、少し何か聴いてごらんよ、とアドバイスしてみようなどという気持ちで、「Iつぁんは、何か音楽聴いとるんか」と聞いてみた。

「割と好きだよ。今はサイモンとガーファンクルとか、セルジオ・メンデスとブラジル66なんかいつも聴いとるけど、K君も好きかなあ?」と答え、聞き返してきた。意外だった。彼がそんな洋楽を聴いているとは考えられなかったのだ。

そうか、サイモンとガーファンクルか。自分は、「コンドルは飛んでいく」ぐらいしか知らないな。何とかメンデスとブラジル云々は名前ぐらいを聞いたことはあるけど、彼の口から何かスラスラッと出てきたな、すごいやと思い、少し口ごもっていると、「そうだ。今日はまだ早いし、ちょこっとだけ僕ん家によって聴いてかん?」と誘ってくれた。私は彼の好意に甘え、初めて彼の家を訪ねた。

彼の部屋は実にきれいに整理整頓されていた。彼のお母さんは、私の訪問を心から歓迎してくださり、もてなしてくださった。その日知ったのだが、I君は一人っ子だったようだ。

質感のある、よいステレオだった。彼はサイモンとガーファンクルのレコードを丁寧にターンテーブルの上に乗せ、静かに針を落とした。アルバムはソニーのベスト盤2枚組だった。全曲を、一切の会話をしないで、彼は流し続けてくれた。私は、この日彼がしてくれたこの行為に、永遠に感謝している。

今日まで、いつも私の心の中でサイモンとガーファンクルが聞こえているのは、この日の出会いがあったからなのだ。

(その後聴かせてくれたセルジオ・メンデスは、私が生まれて初めて耳にしたボサノヴァだった。純情真面目そのもののI君が、こんな大人の音楽を聴いていることに、心底驚いたものだった)。

それからしばらくして、マイク・ニコルズ監督の映画『卒業』がリバイバル上映されることになった。私とI君は、ある日曜日、柔道の昇段試験が終わった後、名古屋市内の映画館でその映画を観た。二人とも、その映画を観るのが待ち遠しくて、待ち遠しくてならなかったのだ。

高校2年生には少し刺激が強かったが、映画全体を通して、大好きなサイモンとガーファンクルが流れ、キャサリン・ロスの可憐な魅力と、アン・バンクロフトの妖しい魅力が溢れていたこの映画に、私は心を奪われ、とても楽しく鑑賞できた。

映画館を出て、少し上気した表情でI君に感想を聞こうとして彼を見ると、何か浮かない顔つきをしている。そのときの彼の言葉が、今でもとても印象的に耳に残っている。彼らしいと言えば、あまりにも彼らしい言葉だったからだ。

「あんなにいやらしい映画だとは思わなかった。子鹿物語のようなきれいな映画だと思って観に来たのに」。

私は、言葉を返せなかった。アン・バンクロフトとダスティン・ホフマンの情事が、やはり見るに堪えられなかったらしい。呆れると言うよりは、こういうものの考え方をする人もいるのだなあ、とつくづくと思った。

高校を卒業したI君は、日頃の勉学の成果で都立大学に入学した。そして、柔道部に入ったらしい。ある日、私は高校の柔道部の同期から、I君が大学の先輩に誘われて高いお金のかかるお風呂に行ったことを聞いた。

アン・バンクロフトのことをあんなに腹を立てていた彼が、と不思議な心持ちになったが、「それがよお、その時女の人と対面したIつぁんは『よろしくお願いします』と深々と頭を下げたらしいぞ。彼らしいよな」と同期は笑って話してくれた。柔道の試合開始のときのように、生真面目に頭を下げるI君を思い浮かべて、微笑ましいような気持ちになった。

それから、あまり時を隔てずに私の親から電話をもらった。「あまり、落ち込まないようにして聞きなさい。I君が亡くなったらしい。どうやら自分で命を絶ったようだ」。

とても口惜しかったし、二十歳で自ら逝ってしまった彼に対し、どうして?という思いが募った。そして、もう帰る人のいない、きれいに整頓されたあの一人息子の部屋で、彼のお母さんはどれだけの悲しい思いをしているのだろうと考えた。

けれども、その日、その頃買ったばかりのサイモンとガーファンクルのテープを聴きながら、静かに思いを馳せていくにつれ、なぜか、とてもIつぁんらしいことだなあと感じてきた。亡くなった理由は分からないけれど、勤勉実直な彼らしい、生き方であり、死に方をしたのではないかと、そう思ったのである。

-…つづく

 

 

第116回:サイモンとガーファンクルが聞こえる(2)