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■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと
第170回:私の蘇格蘭紀行(31)
更新日2010/07/15


■パリから這々の体でロンドンへ

4月28日(水)の続き…
タクシーは、最初セーヌ川沿いから、全部で30分くらいは走り続けた。途中ノンストップである。

さすがベテランの運転手さん、紙に書かれた数字は、「180~200」。空港の出発ターミナルに着いたときの料金メーターが190FRF。200FRFを支払ってお釣りはお断りした。彼はとても上機嫌で、「どうもありがとう。良い旅を続けるように」というようなことを英語で話してから、ゆっくりと走り去っていった。

本当に命拾いした思いだった。もし17:20発のロンドン行きの飛行機に乗れないとしたら、正規料金の航空券を購入しなくてはならず、さらにその日のうちにロンドンに着けない事態にでもなれば、今度は最悪、ロンドン→東京間に正規料金がかかってしまう。

予定外に何十万円というお金が、ただ飛んでいってしまうことになるのだ。つくづくパリのタクシー料金がかなり安いことに救われた思いがした。良かった、良かった。

空港に着いたのが12:10、出発は17:20。とにかく悪い事態は回避できたと言っても5時間以上の時間をどうすればよいのか。まずは昼食。当初はちょっと旨いものをと考えていたが、予定外のタクシー代がかかったため、空港地下にある「マクドナルド」へ。結局、私はパリでの外食は、この世界的なチェーン店にしか入れなかった。かなり情けない。

昼食の後、空港内のロビーに座り込んで今日の顛末をノートに付けているうちに、ついウトウトとしてしまいそうになったが、がんばって堪える。居眠りができる場所ではないのだ。しかし、大いに焦って少し疲れてしまったようだ。

喉が渇いたので水でも買いに行こうと立ち上がって、ズボンの後ポケットが妙に軽いのに気がついた。札入れの財布がない。他のポケットもバッグの中も調べたが、やはりなかった。明らかにスラれたのだ。

今回の旅行中、財布は必ずズボンの前ポケットに入れて、常に手で隠すようにしながら歩き続けた。かなり治安の良いスコットランドの田舎町でもすべてそうしていた。ところが、ついさっきマクドナルドで支払いをした後、ふと日本にいるときの癖で後ポケットに財布を入れてしまった。

店を出ようとしたときの人混みで、一瞬不思議な違和感を持ったときはあったが、おそらくその時に持って行かれてしまったのだろう。珍しい象皮の、とても気に入っていた財布だったのに。居眠り以前の問題だった。

間違いなく、何とか空港に着けたことによる安心感で、一瞬緊張が緩んだのだ。幸いなことに、パスポートと航空券は他の場所に入れてあって無事だった。札入れの中にもそれ程の大金を入れておらず、日本円で15,000円くらい、英ポンドで£70.00くらい(私には大金ですけど)が残っていた程度だった。

その時点での現金の持ち合わせ、つまり小銭入れに入っている金額は、日本円で850円、英ポンドで£3.00。パリの空の下、おそらくベスト10に入る極貧日本人である。

ダメで元々であると思いつつ、空港の遺失物コーナーへ。慇懃に応答してくださったが、最後に、「明後日頃、また顔を出してください。よく調べておきますから」と言われ、時間の無駄であったことを実感する。「一昨日おいで」と言われた方が、まだ洒落が効いている。

最後のFRFのコインで水を買って時間を潰し、ようやく搭乗時刻を迎える。パリはとても素敵なところだけれど、バタバタしちゃったな。今度訪れるときは、お金と時間の余裕を持ってこなければ。でも生涯初めてのスリにあった経験がパリだったのは結構面白いかも知れない。などと、事実的には這々の体でありながら、元来の能天気さで機中バカなことを考えながら、ドーバー海峡を「無事」渡ることができた。

ガトウィック空港に着いてまず調べたのが、渡辺さんの『酔処』のあるグッジ・ストリートまでの電車賃である。£2.40。ギリギリセーフであった(もう今回のこのコラムは細かいお金の話ばかりで恐縮しております)。

『酔処』に着くなり、渡辺さんが、「あっ、お帰り。パリはどうだった?」と聞いてきてくださった。幸い、周りに日本のお客さんがいなかったので、「とても楽しかったのですが、実はド・ゴール空港で財布をスラれてしまいまして、あの渡辺さん、少し貸していただけませんか? 日本に帰ってからすぐに送金しますから」と恥を打ち明け、借金を願い出た。

渡辺さんは、「ああ、そうだったの」と大きく笑って、「ちょっと待っててよ」と裏の方にまわってお金を取りに行き、「こんだけあれば大丈夫かな?」と£100.00紙幣を手渡してくださった。

充分すぎる金額、丁重に御礼を言いビールを注文する。そのうちにいつものメンバーが少しずつ集まってきて、私のパリでの失敗話を肴に大いに盛り上がる。

「たいへんお世話になりましたが、明日帰国します」とご挨拶すると、方々から握手を求める手と、酒瓶がこちらに差し出されて、少し目頭が熱くなる思いがした。そう、ちょうど1ヵ月に及んだ私の蘇格蘭を中心の旅行も、今夜で最後の夜を迎えたのだ。

「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」。ふと、井伏鱒二氏のこの言葉がよぎった。

-…つづく

 

 

第171回:私の蘇格蘭紀行(32)

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金井 和宏
(かない・かずひろ)
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1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
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