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第407回:流行り歌に寄せて No.207 「フランシーヌの場合」~昭和44年(1969年)

更新日2020/11/05


1969年3月30日の日曜日、パリのクレベール通りの路上で、フランシーヌ・ルコント(Francine Lecomte)という当時30歳の女性が、ビアフラの飢餓問題に抗議をして焼身自殺をした。この報道は、日本では翌31日の朝日新聞に外電として、小さな囲み記事で紹介される。

今回、調べていて最も驚いたことは、この曲が発売されたのが、それからわずか2ヵ月半しか経過していない6月15日であった、その即時性である。私は今まで、ずっと以前に起こった事件について歌われたものとばかり思っていた。大いに認識不足だったのである。

当時CMソングの作曲家だった郷伍郎は、この外電記事に触発されすぐに、妻の作詞家いまいずみあきらに手伝ってもらい曲を作り上げた。そして、シャンソン歌手の古賀力とデビュー前の歌手である新谷のり子とともに、青山音楽事務所の協力でデモテープを製作した。

そして郷は、その後日本コロムビアのプロデューサーの飯塚恒雄と出会い、飯塚が日本コロムビアのDENONレーベルから、この曲を発売したのである。レコーディングは基本的にデモテープの雰囲気を最大限に生かして、そのまま古賀と新谷を使って行なわれたのだという。

このスピード感は、やはり当時の時代の持つ雰囲気に後押しされたものかもわからない。

1968年に起こったフランスの五月革命(立場を変えれば「五月危機」とも呼ばれる)では、政府への批判のため、パリで行なわれたゼネストを主体として、学生が主導する労働者、一般大衆が一斉蜂起をした。連日ストライキ、デモ行動は続き、多くの大学、工場は閉鎖、鉄道はじめ交通は麻痺状態になり、当時のド・ゴール政権下の政治は大混乱した。

フランシーヌ・ルコントの行動も、前年からのこの大きなうねりの中の一環であると捉える人が多い。

アメリカ合衆国でのベトナム戦争反対、徴兵制拒否の運動、中国での文化大革命の全盛、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキアへの軍事介入など、60年代末期は、まさに激動の時代だった。

日本でも全共闘の活動や東大闘争、70年安保闘争が大きな動きとなって、国民に影響を与えていた。『フランシーヌの場合』のレコード発売日の6月15日は、反安保の日(樺美智子が1960年のこの日に亡くなったことに因んで)に合わせて決められたのだという。


「フランシーヌの場合」 いまいずみあきら:作詞 郷伍郎:作曲 テディ池谷:編曲 新谷のり子:歌
 

フランシーヌの場合は 

あまりにもおばかさん

フランシーヌの場合は 

あまりにもさびしい

三月三十日の 日曜日

パリの朝に 燃えたいのちひとつ

フランシーヌ

 

ホントのことを言ったら

オリコウになれない

ホントのことを言ったら

あまりにも悲しい

三月三十日の 日曜日

パリの朝に 燃えたいのちひとつ

フランシーヌ

 

ひとりぼっちの世界に

残された言葉が

ひとりぼっちの世界に

いつまでもささやく

三月三十日の 日曜日

パリの朝に 燃えたいのちひとつ

フランシーヌ

 

フランシーヌの場合は

私にもわかるわ

フランシーヌの場合は 

あまりにもさびしい

三月三十日の 日曜日

パリの朝に 燃えたいのちひとつ

フランシーヌ

 

曲の1番の途中からナレーションのように入ってきて、2番と3番の間に、シャンソンとして歌われるフランス語の語り及び歌は、シャンソン歌手の古賀力によるもの。

歌詞の中の “Francine s'et abandonnee a la couleur de fraternite.”(abandonnee の最後から2番目の<e>及び <fraternite>の最後の<e>の上には<' >が付く)は、「フランシーヌは友愛の色に身を任せた)と訳されるそうだ。

「fraternite(友愛)」は、「自由」(青)「平等」(白)とともに三色旗を形成する色「赤」を表し、それは炎の色である。

古賀力は、シャンソン歌手として『ジロー』でデビューし『銀巴里』など多くの舞台で活躍した。自らもこの曲の出る前年の1968年に赤坂に『ブン』をオープン、先日亡くなったジュリエット・グレコなどの大スターの舞台として有名店となった。

作詞家のいまいずみあきらと、作曲家の郷伍郎はご夫妻。妻の名義で作詞とあるが、実質は共同クレジットのほとんどが、郷が作詞を手掛けていたようで、『フランシーヌの場合』もいまいずみが「2番の詞を頼まれて作り、すこし手伝ったくらい」と述懐している。

郷は「チャオチャオっと舐めちゃお、サクマのチャオを舐めちゃお」の『サクマのチャオ』や「ここは吉野家、味の吉野家、牛丼一筋八十年」の『吉野家牛丼CMソング』などのCMソングの作曲をした人として知られている。

編曲のテディ池谷はジャズピアニスト兼編曲家だが、幅広い音楽家との交流で有名な方である。東京キューバンボーイズのメンバーでもあったが、90歳近い今でも演奏を行なっていると聞く。ニックネームは「日本のカーメン・キャバレロ」。

そして、新谷のり子。この曲を出す直前に三里塚闘争に参加し、戸村一作を恩師と仰ぐようになる。その後も一貫した姿勢で歌を歌い続けている。

もう10年ほど前だろうか、水前寺清子が久しぶりに新谷のり子に会った場面があって、「あなたは、なぜあのような(思想がかった)歌を歌ったの?」と質問すると、「私は自分の信念で歌いました。今もそれは変わっていません」と答えているのをテレビで観たことがある。デビュー当時と変わらないキリリとした眉毛が大変印象的だった。


-…つづく

 

 

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金井 和宏
(かない・かずひろ)
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1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
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