第401回:流行り歌に寄せて No.201 「白いブランコ」~昭和44年(1969年)
小さな頃から、ブランコは苦手だった。特に目をつむりながら漕いでいるときに、一番上まで上りついてから下っていく瞬間の、胸いっぱいを覆うような、ざわついた不安感が怖くてたまらなかった。だから、みんなが思い切り漕いでからジャンプする、幅跳びごっこに興じるのを、半ば信じられないような思いで見ていたりした。
母が少女時代、文京区に住んでいた時に、母の乗ったブランコを近くの東大生のお兄さんが押したことがあったそうだ。彼は力任せに母のブランコを押し続け、ついには一回転させてしまったそうである。その時の恐怖から、母は二度とブランコに乗れなくなった。その東大生は、精神的に病んでいたようで、まもなく行方知らずになったとのことだった。自殺をしたかも知れないという噂も立ったという。
その話を、私は小さい頃からいくたびか聞かされていたから、苦手意識が備わったのかもわからないが、今でもブランコのある公園に行っても、漕ぎ始めようとは思わない。
そんなことから書き始めてしまうと、この柔らかく切ないような名曲のイメージが損なわれるかも知れない。切り替えて本題に入らなければならない。
さて、この曲は、兄弟グループになったビリー・バンバンが師事した、浜口庫之助の、渋谷区代官山の家の庭に置かれた、白いブランコから着想を得たものだそうである。因みに、この庭には見事な赤い薔薇も咲いていたという話である。
詞を書いた小平なほみも、ハマクラ先生に師事をしていた人であり、先生の作詞の方のクラスに所属していた。その後、ビリー・バンバンには菅原進と組んで『恋の花うらない』『みにくいあひるの子』、そして筒美京平と組んで『悪っぽい人だけど』という曲を森山良子に提供している。
「白いブランコ」 小平なほみ:作詞 菅原進:作曲 青木望:編曲 ビリー・バンバン:歌
君はおぼえているかしら あの白いブランコ
風に吹かれて二人でゆれた あの白いブランコ
日暮れはいつも淋しいと 小さな肩をふるわせた
君にくちづけした時に 優しくゆれた 白い白いブランコ
君はおぼえているかしら あの白いブランコ
寒い夜によりそってゆれた あの白いブランコ
誰でもみんなひとりぼっち 誰かを愛していたいのと
つめたいほほをよせたときに 静かにゆれた 白い白いブランコ
僕の心に今もゆれる あの白いブランコ
幼い恋を見つめてくれた あの白いブランコ
まだこわれずにあるのなら 君のおもかげ抱きしめて
ひとりでゆれてみようかしら 遠いあの日の 白い白い 白いブランコ
さて、先ほど兄弟グループになったビリー・バンバンと書いたが、私たちがよく知る、兄・菅原孝と4歳違いの弟・菅原進(三人兄弟の次男と三男)の二人のグループになる前から、このグループは存在していたそうである。
弟の進が、高校生時代の三人の音楽仲間と青山学院大学に入ってバンドを作り、ビリー・バンバンと名乗る。グループ名はアメリカのアウト・ロー、ビリー・ザ・キッドがバンバン撃ちまくるというアメリカの漫画から取られたという。
その後メンバーの入れ替えがあり、兄の孝が加入するが、デビューする直前は三人編成のグループであり、残りの一人でパーカッションを担当していたのが、ムッシュ中野、後のせんだみつおだった。このことを、私は今回初めて知った。
『白いブランコ』で進がギター、孝がウッド・ベース、そしてその後ろに、せんだみつおがコンガか何かを叩いていたら、ビリー・バンバンのイメージはかなり変わったものになっていたことだろう。
さて、昭和19年、いわゆる戦中生まれの兄・孝と昭和22年、いわゆる団塊の世代の弟・進は、顔はよく似ているものの、性格は対照的だと言われている。明るく社交的な孝に比べて、弟の進は一つのことに打ち込む職人タイプのようだ。
自分の作った曲である『白いブランコ』のイントロとエンディングに、トランペットの音を断りなく入れられたことを進がスタッフ陣に抗議をし、それを兄が宥めるという風景もあったらしい。
また、この曲は師であるハマクラ先生の手掛けた『星空のハプニング』という曲のB面として発売される予定だったが、ニッポン放送のディレクターの提案で間際になってA面B面を入れ替えて発売されたという。『星空のハプニング』とはどんな曲なのか、たいへん興味があるが、今回はそれを聴くことができなかった。
ここ数年は二人とも大きな病いを患い、周囲に心配をされていたが、懸命のリハビリを続け、今では公的の場でも元気な姿を見せている。あのハーモニーを、まだまだ聴き続けていたい。
-…つづく
第402回:流行り歌に寄せて No.202 「時には母のない子のように」~昭和44年(1969年)
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