第408回:流行り歌に寄せて No.208 「雨に濡れた慕情」~昭和44年(1969年)
ついに、ちあきさんの登場である。自分で書いているにも拘らず、私の中では「待ってました!」と思わず声をかけてしまいたくなってしまう。ちあきなおみは、西田佐知子とともに、私が十代、二十代の頃から今日まで変わらず、ずっと大好きだった歌手なのである。
私が、生まれて初めて買ってもらったEPレコード、即ちドーナツ盤は、ちあきなおみの『X+Y=LOVE』だった(因みに、SP盤は『月光仮面は誰でしょう』、LP盤は『吉永小百合とともに』である)。
最初、彼女の何に惹かれたかといえば、ノースリーブを着て歌った時に見えた、二の腕に残る大きな疱瘡の痕だった。それをテレビで観た時、決して触れてはいけないような大人の色気を感じて、ただドキドキしていた。
当時「お色気アイドル路線」で売り出していた頃のことだから、色気を持ち始めた中学生を悩殺するくらいのことは訳はないことだったと思うが、まさか疱瘡の痕にそれを感じられていたとは、気づかなかったかも知れない。とにかく、私は簡単にノックアウトされてしまったのだ。
ちあきなおみは、母親の根っからの芸事好きの影響を受けて、幼少からタップダンスなどを習い、何と4歳のときから米軍キャンプでジャズを歌い始めていたという。当たり前のことだが、今では想像もつかない世界である。
神奈川県生まれだが、東京との間を行ったり来たりと引越しを重ねており、小・中学校で何回か転校を繰り返している。典型的な「転校生」ということでは、私も共感が持てる。
そして、日本コロムビアのオーディションを受け、保留となり、鈴木淳のレッスンを1年4ヵ月受けていた。あれだけ歌の上手い人だが、当初は荒削りであるとか、何か癖がついてしまっていたとかの問題があったのだろうか。基礎からみっちり教え込まれたのだろう。
そして満を持して、師匠である鈴木淳の作曲によるこの曲で、21歳でデビューすることになった。
「雨に濡れた慕情」 吉田旺:作詞 鈴木淳:作曲 森岡賢一郎:編曲 ちあきなおみ:歌
雨の降る夜は 何故か逢いたくて
濡れた歩道をひとり あてもなく歩く
*すきでわかれた あの人の
胸でもう一度 甘えてみたい
行きすぎる傘に あの人の影を
知らず知らずにさがす 雨の街角*
ひえたくちびるが 想い出させるの
傘にかくした夜の 別れのくちづけ
今は涙も かれはてた
頬に黒髪 からみつくだけ
ふりしきる雨に このまま抱かれて
ああ死んでしまいたい 落ち葉のように
(*くり返し)
知らず知らずにさがす 雨の街角
作詞は吉田旺。吉田旺と言えば、このデビュー曲を始め『喝采』『夜間飛行』『赤とんぼ』そして『冬隣』などの、ちあきの名曲の詞を書き、彼女にとっては最大のパートナーと言える存在である。
その吉田の作詞のデビュー作が、実はこの『雨に濡れた慕情』であるというのだから、二人はもう切っても切れない縁と言えるだろう。事実、ちあきの「引退」後に親交を保ち続けている、非常に数少ない音楽関係者であると聞く。
ちあきの珠玉のヒット曲の他には、五木ひろし『ふたりの夜明け』、内山田洋とクール・ファイブ『東京砂漠』、由紀さおり『恋文』、森昌子『立待岬』などの代表作がある。
情感に溢れ、そのドラマが映像のようにまぶたに浮かぶような詞を書く吉田旺も、最初は賞金の3万円と賞品のステレオが欲しくて、月刊『明星』の募集歌に応募を続けた音楽青年だった。多摩美大卒、フリーデザイナーの経験があることも、彼の作品に大きな影響を与えているのだろう。
作曲の鈴木淳と、編曲の森岡賢一郎については、このコラムのNo.158 小川知子の『小指の想い出』の項で少し触れた。この後のちあきの『朝がくる前に』『X+Y=LOVE』『別れたあとで』などにも、二人は参画している。
さて、ちあきなおみのデビュー時のキャッチフレーズは、『魅惑のハスキーボイン』と『苗字がなくて名前がふたつ』というものであった。
最初の方は『ハスキーボイス』とボインを掛けたのだろう。そもそも大橋巨泉が、テレビ番組『11PM』の中で朝丘雪路の大きな胸を「ボイン」と言い始めたことから全国的に広まった言葉で、当時は子どもたちもしきりに使っていた。
後の方は、確かにそうだが、それをキャッチフレーズにするほどのことか、と思ってしまう。
どちらにせよ、これから大きく羽ばたくであろう女性歌手をデビューさせよう! という意気込みをまったく感じさせない、力の抜けた言葉が並んでいる。結果的にこれが良かったのか、いや、もう少し考えていただいた方が良かったような気もするのだが。
-…つづく
第409回:流行り歌に寄せて No.209 「恋の奴隷」~昭和44年(1969年)
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