■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち


杉山淳一
(すぎやま・じゅんいち)


1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。




第1回~第50回まで

第51回~第100回まで

第101回~第150回まで

第151回~第200回まで


第201回:ややこしいきっぷ
-長崎編・序1-
第202回:三重県の百代目
-のぞみ19号・近鉄名古屋線-

第203回:大和路を北へ
-近鉄橿原線-

第204回:塔のある街
-近鉄京都線-

第205回:京都駅発周遊コース
-京都市営バス・阪急京都線-

第207回:嵐山のターミナル
-京福電鉄嵐山線-

第208回:室町時代を通過する
-京福電鉄北野線-

第209回:東風吹けど……
-京福電鉄嵐山本線-

第210回:2日ぶりのベッド
-寝台特急あかつき・前編-
第211回:朝日が射す部屋
-寝台特急あかつき・後編-

第212回:干拓の風景
-島原鉄道 前編-

第213回:神話が生まれるとき
-島原鉄道 中編-

第214回:とかげのしっぽ
-島原鉄道 後編-

第215回:がしんたれ
-島原鉄道・島鉄バス-

第216回:爆心地
-長崎電気軌道1-

第217回:片道だけの3号系統
-長崎電気軌道2-

第218回:路地裏の展望台
-長崎電気軌道3-

第219回:丘を越えて海へ
-長崎本線(旧線)-

第220回:バブル経済の功績
-大村線-

第221回:大きな窓と開く窓
-JR佐世保線・松浦鉄道-

第222回:歌姫にさよならを
-筑肥線・非電化区間-


■連載完了コラム
感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■著書

『知れば知るほど面白い鉄道雑学157』
杉山 淳一 著(リイド文庫)


■更新予定日:毎週木曜日

 
第223回:佐賀県縦断 -唐津線-

更新日2007/12/27


まだまだ"老いた"という歳ではないが、勢いが衰えたと思うことがある。旅の日程で無意識に"ゆとり"を含めている。例えば今回の乗り継ぎがそうだ。筑肥線の山本駅着が10時24分。唐津線の佐賀行きは10時25分発。20年前の私なら、走れば乗り継ぎ可能だと判断しただろう。しかし今回は無意識に避けた。運がよければホームの隣。しかし、運が悪ければ階段の上り下り。それを1分で駆け抜ける自信が無い。

「乗り遅れたらそれもよし。思い出になるではないか」という考えは若さゆえのものである。確かに乗り継ぎに失敗したり、何もすることが無く退屈にすごした駅のことは覚えている。筑豊本線の折尾駅では立ち食いそばに手を出して乗り遅れた。天北線の美深駅では、夜行で未明に着き、始発列車までの4時間を読書で凌いだ。寒さに耐え、自販機の明かりで星新一の全集を読みふけった。貧乏くさい思い出だが、今となれば時間を贅沢に使ったことへの懐かしさもある。


松浦川に沿う。

しかし、人生の半分を過ぎた今は「これで予定通りの路線に乗れなくなったら、次はいつになるかわからない」と思ってしまう。だから私は10時25分発を諦め、確実に11時44分発に乗る予定を立てた。1時間20分も何をするかは決めなかった。駅の近くに何かあれば見物するし、何も無ければ文庫本と携帯ゲーム機がある。きわどい乗り換えという冒険を捨て、ゆとりを予定に含めたというわけだ。

ところが山本駅に着いてみると、10時25分発の佐賀行きは同じホームの反対側に停まっていた。考えてみればこれは当たり前の話で、筑肥線も唐津線も列車の本数が少ないから、鉄道会社としてはなるべく接続の便を図るだろう。時刻が接近しているなら乗り換え可能が基本だ。私は迷わずに予定より早い列車に乗った。山本駅周辺の散策にも興味はあるが、地図帳を見る限りは何があるわけでもなく、ホームからの景色がすべてを物語っているようだ。かつては筑肥線の福岡方面のホームがあったせいか、構内は広々としていた。蒸気機関車が似合いそうな古い駅舎があるけれど、現在ここは無人駅である。


山越えが始まる。

列車が走り始めた。筑肥線では通過した本牟田部駅に停車し、筑肥線の線路を潜る。筑肥線も唐津線も唐津へ線路を延ばすのに、なぜ2本の線路は立体交差するかといえば、筑肥線が分断されずに直通していた名残である。一時間に上下1本という頻度なら平面交差でもよさそうなものだが、建設当時はもっとたくさんの列車が走っていたのだろう。唐津線は唐津炭田の石炭を唐津港から出荷するための鉄道だったという話だ。その役目は西唐津と山本間で担っていた。

唐津線は長崎本線の支線という位置づけで、起点は長崎本線の久保田である。しかし、線路の建設は逆方向で、唐津側から久保田へ向かっていた。この先は笹原峠もあり、峠の先の多久でも石炭が出た。平行している道路に唐津街道という名が付いているところを見ると、有明海と玄界灘を結ぶ交通の需要は古くからあったのだろう。

列車は松浦川に沿って佐賀県を南下していく。車窓は先ほどの唐津線と似ている。線路の両側に山があり、山の手前に水田や畑がある。駅付近は町だが、唐津線よりも駅の間隔が長いようだ。峠に向かうほど耕地に適した土地は減り、住む人は減っていく。そして線路の周りも険しくなり、列車はどんどん坂道を上った。蒸気機関車の頃はさぞかし撮影の名所ではなかったか。蒸気機関車は上り坂になると燃料をたくさん燃やす。だから煙がもくもくと出て、勇壮な表情になる。今でもカレンダーに使われるSLの写真は上り坂で撮られたものが多い。


笹原峠を越える。

厳木に着く。きゅうらぎと読む。難読駅名だ。佐賀県は名物が無いとコメディアンが歌っていたけれど、南北朝時代あるいはそれ以前から人が住み、大陸と交易をしていた。唐津の唐は中国大陸の意味である。そしてこのあたりは元寇の被害にも遭っている。古の文化があるから、地名も古代語に由来する地名が多い。唐津線にも筑肥線にも難読駅名が多いと思う。しかしどっしりとした歴史を感じる。ニュータウンと呼ばれるあたりの地名のなんと軽薄なことだろう。しかし、旧来の地名にも危機が訪れているようだ。厳木駅の駅名標の下。所在地名が白ペンキで塗りつぶされて、佐賀県唐津市に書き換えられている。地方自治体の統廃合が進んでいるのだ。

松浦川を渡り、風景が険しくなる。いよいよ分水嶺を越えるぞというあたりでディーゼルカーはトンネルに入った。再び明るくなると筑紫平野へ降りていく。空は相変わらず灰色だ。前後で天候が変わるほどの山越えではなかった。多久駅の先に「唐津線の電化はみんなの利用から」という看板があった。唐津線を電化して佐賀への通勤路線にしたいようだ。長崎本線が交流電化だから、久保田から佐賀へ乗り入れる列車を電車にしたいなら交流電化すべきだ。しかし唐津線の唐津側は直流電化である。さしあたり多久まで交流電化するとしても、唐津へ行く列車はディーゼルカーのままになるだろう。そうなると、現在の本数では電化は難しそうである。


多久駅。

多久は炭田の町だったが、現在は工業団地を誘致し、自動車部品や鋳物の工場などがある。多久駅前には大きなアパートもあった。工場の職員用住宅かもしれない。中多久の駅前には幼稚園バスが停まっていた。若い家族が多いようで、これも工場誘致の効果だろうか。東多久の駅前には同じ形、同じ色の戸建て住宅が並んでいる。東京近郊の建売住宅に比べるとひと回り大きい。なるほど、唐津線の沿線は発展の余地があるのだな、と思う。ところが、長崎本線と接続する久保田駅の周辺は意外とさびしい。幹線と支線の分岐駅だから、もうすこし栄えていてもよさそうなものである。

久保田着11時17分。下りの西唐津行きが隣のホームに見えた。間に合うはずが無いだろうとのんびり階段を上がったら、お急ぎくださいとのアナウンスがある。慌てて階段を下りて走ったら間に合ってしまった。ワンマンカーの運転士は私を見て、「これは唐津に戻る列車ですよ」と2回繰り返した。きっと私が佐賀行きから降りたところを見ていたのだろう。私も「いいんだ」と繰り返す。運転士はそれ以上何も言わなかった。不審な行動には違いないが、うっかり乗り過ごした気の毒な客だと思ったのだろうか。どうせ周遊券をもって折り返す鉄道ファンだと正しく認識してくれるとありがたいのだが。


筑紫平野へ。

西唐津行きの列車は11時18分を少し遅れて発車した。予定では13時19分発に乗るはずだった。この時点で2時間も予定が繰り上がっている。どこかで途中下車するか、予定外の路線を乗るか。そんな検討を始めてもいいかもしれない。本やゲームで潰す暇はなかった。今の状況をいかに楽しい方向に持っていくか。時刻表を眺めるほうが有意義で楽しく、そして緊急の課題になっている。


天山が見えた。

-…つづく


第212回以降の行程図
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