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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第9回:バッハの顔 その3

更新日2021/12/23

 

バックパッカー時代、オスロの美術館を訪れ、ムンクの『絶叫』にいくつものヴァージョンがあること知り、ショックを受けた。それぞれ微妙に、あるいは背景に大きな違いがあるのだが、お化けのような人魂がなくなった空気を吸うように大きく口を開けているいるのは同じだ。

私はなんとなく、優れたゲージュツ品というのは一点だけで、他は皆コピーに過ぎないと信じていたのだ。もっとも、私に本物、コピー、贋作を識別できる目があるわけではない。それにしても、モナリサがチマタに何枚も散らばっていてたまるかと思っていたのだ。

しかしながら、一つの同じテーマで繰り返し描くのは、必ずしも、その芸術家の不名誉になることではないらしいのだ…。

肖像画家ハウスマンの二枚目は、細部を描き込んでいるのがはっきり見て取れる。一枚目で描ききれなかった細部、たとえば、前に書いたようにジャケットの内側の小さなボタンを七つはっきりと付け加えているし、鬘(かつら)もより白く、詳細に描いている。

楽譜を手にした右手のくるぶしもピンクに染め、手の甲、指を引き立たせている。一体、こんなプクプクした手でオルガンやヴァイオリンが弾けるのかと思わせる。リストの石膏の鋳型の手とはドえらい違いだ。また、一枚目に見える髭剃り跡のような頬の影が二枚目では消えている。

バッハは1747年の5月に突如病に倒れ、目が不自由になった。症状から診て、進んだ白内障か緑内障だと言われている。病状にアップ・アンド・ダウンはあるにしろ、細かい楽譜を読むこと、書くことができなくなったのだ。年賦をみると、どのような事情があろうと、あれだけ精力的に作曲、演奏を続けてきたバッハが、1748年から1749年の最晩年には急に静まりかえっているのだ。

この1748年に描かれたと言われている二枚目の肖像画は、明らかに目の不自由なバッハをジカにモデルにしたものではないと言い切ってよいと思う。バッハ自身、家の中を歩くのさえ困難だったのだ。妻のアンナ・マグダレーナと娘婿のアルトニコルが、バッハが鍵盤に向かい演奏するのを楽譜に書き取るような状況だった。『フーガの技法』はそのようにして生まれ、未完に終わった。

折りよくと言うべきか、廻り合わせただけと言った方が当たっているだろうか、当時、目医者として盛名を得ていたイギリス人の医師ジョン・テイラーなる人物が、ドイツ、ザクセンを旅行中で、これは良いチャンスとばかり、ジョン・テイラー医師をライプツィヒに呼び、手術を受けたのだった。それが死の年1750年の3月28日のことだった。

ジョン・テイラー医師の確約にもかかわらず、バッハの目は一向に良くならず、2回目の手術を4月5日に受け、結果、バッハは完全に失明することになった。これは何もジョン・テイラー医師がヤブだったとは言い切れない。当時、1750年頃の医術は、ましてや目の外科手術はそんなものだったのだ。

そして同年、7月22日に心臓麻痺に襲われ、28日に息を引き取った。享年65歳。


私たちが抱くイメージは偏った、固定されたものになりやすい。
ピカソと言えば、禿げ頭でギョロ目の晩年のイメージが浮かび、彼の頭に豊かな頭髪が載っていた青年期があったであろうことは想像しにくい。ダリと言えば、あの魔法使いのように口ひげを上向きにカーブさせ、目を剝いているイメージだ。ダリの場合は、大いに自分でそのようなイメージを作り上げ、売り込んでいたと思われるが、そうと知っていても、あのダリ髭を打ち消せない。

バッハの伝記の多くは、バッハの家系に始まり、バッハ家がいかに音楽一家であったかを書き起こす。そして、バッハ誕生、幼年期、少年期、そして青年期と順を追い、エピソードを重ね、バッハ像を浮き上がらせるのが一つのパターンになっている。

だが、肖像画家ハウスマンのデップリとしたバッハの肖像画に捉われた目には、どうにも天真爛漫に外を駆け回る子供のバッハは想像し難いのだ。あの気難し屋でいかにも短気、癇癪持ちのバッハ像から、ボーイソプラノでウイーン少年合唱団の少年たちのように、「ワーッ、カワイイ!」という少年バッハのイメージがどこをどう叩いても沸いてこないのだ。

No.9-bach_01
ワイマール時代のバッハ…と言われている青年時代の肖像画

1708年から1717年(バッハが23~32歳)までワイマールの宮廷に150フロリンの年収、暖房用の薪4コード(1Cordは3.6立方メートル;薪の場合、幅1.2m、高さ1.2mに積み上げ、それが2.4mの長さのことをいう。私の高原台地では一冬に5コードほど燃やす)の条件で就職し、実に事細かな契約を交わしている。

この青年バッハの肖像画は、専門家のベッセラー(Besseler;絵画の鑑定家、歴史家)が1950年、バッハの死後200年経っているいるが、鑑定し、ワイマール時代の青年バッハだとしたものだ。

この絵は1877年にエルファート(Erfurt;チューリンゲン地方の首都で、バッハが生まれ育った町アイゼナッハと9年間勤めたワイマールの中間にある)の家の屋根裏で1877年に発見され、それをエルファート市が1907年に買い上げ、現在、市の博物館、美術館の目玉展示物になっている。

バッハがワイマールの宮廷で小さな管弦楽の楽長、オルガニストだった同じ時期のワイマール宮廷のお抱え画家はジョアキン・エルンスト・レンシュ(Joachim Ernst Rentsch)だった。この宮廷画家が描いたことに違いはなさそうなのだが、さて、肝心のモデルはバッハだったのか、他の人物だったかの鑑定に結論は出ていない。

奇妙なことだが、この青年バッハは、晩年の有名なバッハと同じジャケットを着ている。当時、このようなジャケットが音楽家のタキシードのように決まりきったファッションだったのだろうか、それとも、晩年のバッハ像を見て、かなり後になってから、同じものを着せて、青年バッハを描いたのだろうか。髪は鬘(かつら)ではなく自分のものだ。また、目だって左目が大きい。

ワイマールの時代、バッハはチューリンゲン地方ではチョットは名の知れたオルガニストだったが、肖像画に描かれるほど高名ではなかったと思う。バッハ自身が直接モデルになったかどうか…相当怪しいにしろ、青年バッハの面影を十分に伝えてくれる絵だと思う。

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晩年のバッハと伝えられている作者不詳の肖像画

この肖像画でも、公認のハウスマンのバッハ肖像画と同じジャケット、内側にチョッキだろうか、のボタンが描かれ、ブラウスも同じだが鬘(かつら)は真中から分けられている。何よりも違うのは頬の肉付きで、この肖像画では長方形の顔になっている。そして、口元を故意に引き締め、上唇がほとんどない。ハウスマンの方の絵は眉こそ寄せているが、唇は自然に軽く閉じている。

 

 

第10回:バッハの顔 その4

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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