第10回:バッハの顔 その4
もう一枚、できの良いバッハのパステル画が残っている。
ゴットリーブ・フリードリッヒ・バッハ(Gottlieb Friedrich Bach)が描いたと云われているパステル画で、おそらくバッハがドレスデンの宮廷、アウグストゥス2世から、宮廷作曲家のお墨付きを貰った時に描かれたのではないかと言われている。というのは、当時非常に高価で贅沢の極みであったベルベットの上着、コートを羽織っているからだ。時にバッハ52歳だった。
この肖像画が本物であると仮定して、私の個人的趣向では一番好きなものだ。まだ眉間に険しいシワを寄せておらず、眼光にも優しさがあるように見える。全体に気取りのない自然体だ。
このパステル画はマイニンゲン(Meiningen;テューリンゲンの低い山並みを南に下ったとこにある町で、バッハの生まれ育ったアイゼナッハ=Eisenachの凡そ50Km南にある)の宮廷のオルガン奏者であり、かつ宮廷画家という、恐ろしく器用なゴットリーブ・フリードリッヒ・バッハが描いたと言われてる。確かにゴットリーブは1732年にライプツィヒを訪れ、しばしばバッハ宅に招かれており、温和なゴットリーブをバッハは気に入っていたようだ。
真偽の結論は出ていないが、フレイズ(Freyse;絵画の鑑定人、歴史学者)は、このパステル画は年代査定でいくと1780年頃、バッハの死後30年経ってから描かれたもので、しかも何度も上塗り、描き直した形跡がある。フレイズはあくまで推測の域であるが…として、ゴットフリーブが1732年に軽くスケッチしたものに、息子、やはり宮廷画家だったヨハン・フィリップ・バッハ(Johann Philipp Bach)が、パステルカラーで色づけしたのではないか…と言っている。息子のヨハン・フィリップはバッハの死後2年、1752年生まれで、当時としては驚異的な長寿、94歳で他界した。
一体全体、本当のバッハはどんな顔をしていたのか、
コンピューターグラフィックを使い立体的に復元したもの
頭蓋骨や発見された骨の一部に肉をつけ皮膚を張り、博物館で見られるようにネアンデルタール人、ピテカントロップス、類人猿が再現されている。恐竜の姿も生きたように再現されている。頭蓋骨から顔、頭を生きた人間のように作り上げる技術は進んでいて、相当正確に再現できるものらしい。その道の専門家、優れた肉付け師が巷におり、90何%正確に復元できる…と言われている。
バッハは1750年7月28日、夕刻20時15分に死亡し、7月31日にライプツィヒのヨハネス教会(Johanniskirche, Stuttgart)墓地に埋葬された。ヨハネス教会の墓地は旧市街を取り巻く環状道路、リンクのすぐ外にある。古楽器の収集で有名なグラッシ(Grassi)博物館に足を運ぶなら、その途中にあるヨハネス広場の芝生を踏み、横切ることになる。そこにヨハネス教会、墓地があった。
そして、1943年12月4日の大空襲で教会、墓地ともに壊滅状態になった。当然、バッハの墓石も遺体も、他の何百という墓と同様、行方不明になった。というより、渾然として、どの墓石のかけらが、どこから飛んできて、どこの地面に埋まっていた誰のものかなどに関わっているユトリなど、戦後のドイツ、ライプツィヒの住民にあるはずもなかった。
1950年になって、バッハのものだと確認された遺体が聖トーマス教会に移された。その時、古典的な技術だったにしろ、バッハの頭蓋骨も鋳型を取り、それに肉付けすることで、この頭はバッハのものに違いないと…されたのだった。もちろんそんな鑑定を疑う向きはある。
聖トーマス教会の祭壇の中央にあるバッハの墓碑
今なら、DNA鑑定でその頭蓋骨がバッハのものであるか、即判明するのだろうが、もちろんそんなヤボなことをライプツィヒは許さない。事実を明らかにするより、伝説の持つ真実、民衆がそうと信じてきたことに真理を置いたのだろう。イギリス人が未だにシェークスピアの墓を暴かないように。
バッハの肖像画のことを長々と書いてきたが、そんなことはバッハの音楽に関係ないではないか! という声が聞こえてきそうな気配がする。もっともなとこだ。私はバッハの顔がどうであろうと、彼が作り出した音楽には無関係だと承知の上でのゴタクを並べているのだが…。
第11回:バッハを聴く資格 その1
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