第334回:流行り歌に寄せて No.139 「バラが咲いた」~昭和41年(1966年)
私が一番はじめにこの曲を聴いたのは、確か『小川宏ショー』だったと思うが、朝のワイドショー番組だったと思う。きちんと櫛が通った髪を七・三に分けた、バタ臭い顔をした青年がギター1本で歌っていた。記憶が正しければ、ソフトフォーカス映像だった気がする。
この頃、私は小学5年生になったばかり。小学1年生から4年間、一度もクラス替えが行なわれない学校だったが、生徒数の増加により、3クラスから4クラスに増えて、ついにクラス替えが実施された。
卒業まで同じクラスメイトでいると思い込んでいた児童たちは、最初は大いに戸惑い、女の子の中にはしばらく欠席をしている子も出たが、そのうちに新しいクラスに慣れていき、学年は活気を取り戻していった。
私には父親の仕事の関係で、長野市の吉田に転校になるのではという話が浮上していた。また転校しなければならないかと覚悟し始めていたとき、その話が急になくなり、ホッとしてクラブ活動を始めだした。運動神経が何本か抜けていた私が選んだのが演劇部だった。
演劇部が毎年、校内放送を使って行なう、放送劇の主役になぜか抜擢され、毎日真剣に家で台本を読んで練習した。ところが、今度は父親が名古屋市に転勤になるという話があり、こちらはあっさりと実現することになった。生放送で、転校日の後にその放送が行なわれるため、私は止むなく降板し、他の子が代役となり稽古に加わった。
演劇部の部長は先輩の6年生の女子だったが、私に降板を告げるとき、とても悲しそうな目で、私をまっすぐ見てくれていた。
劇デビューが果たせなかった私は、いつか一度はみんなの前で何かを表現してみたいなという、ぼんやりとした気持ちを持つようになった。あの頃の自分の心情を思うとき、この『バラが咲いた』と『涙くんさよなら』のメロディーを必ず思い出す。
「バラが咲いた」 浜口庫之助:作詞・作曲 小杉仁三:編曲 マイク眞木:歌
1.
バラが咲いた バラが咲いた まっかなバラが
淋しかった僕の庭に バラが咲いた
たったひとつ咲いたバラ 小さなバラで
淋しかった僕の庭が 明るくなった
バラよバラよ 小さなバラ
いつまでも そこに咲いてておくれ
バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが
淋しかった僕の庭が 明るくなった
2.
バラが散った バラが散った いつの間にか
ぼくの庭は前のように 淋しくなった
ぼくの庭のバラは散ってしまったけれど
淋しかったぼくの心に バラが咲いた
バラよバラよ 心のバラ
いつまでも ここで咲いてておくれ
バラが咲いた バラが咲いた ぼくの心に
いつまでも散らない まっかなバラが
この曲は『涙くんさよなら』と同様、私の敬愛するハマクラ先生の作詞作曲の、いつまでも私たちの心に残るであろう名曲である。サン=テグジュベリの『星の王子さま』の薔薇にまつわるエピソードから喚起されて作られた曲だという。「大人の童話」と呼ばれた心優しい作品をハマクラ先生がお読みになり、それをもとに作品を作られたと聞いただけで、私などは大いに感激してしまう。
編曲の小杉仁三(じんぞう)は、作曲家、編曲家で、水前寺清子の『三百六十五歩のマーチ』など多くの歌謡曲、映画音楽などを手がけた人である。この『バラが咲いた』では、ギターとウッドベースだけのシンプルなアレンジで、この曲の持ち味をストレートに表現しているようだ。
この曲が4月に売り出されて間もなく別録音され、NHKの『みんなの歌』で6、7月の歌として放送されている。編曲は菊川迪夫が担当し、歌はマイク眞木とともに西六郷少年少女合唱団が合唱に加わっている。
西六郷少年少女合唱団は、彼らの地元である六郷土手沿いの風景を歌った『ぼくらの町は川っぷち』を団歌とし、NHK番組『歌のメリーゴーランド』のレギュラー、『みんなの歌』も常連で、当時大人気のスター合唱団だった。『鉄人28号』や『狼少年ケン』など人気アニメのコーラスも担当、私たちにとっては「東京」の「憧れ」のエリート集団だったのである。
当時の、羨望からくる、ある種の悔しい思いから、話が横道に逸れてしまったようだ。
さて、マイク眞木は、この曲がヒットする3年前に『モダン・フォーク・カルテット』を日大藝術学部在学中に結成し、いわゆるカレッジ・フォークの草分けとなった人だった。
翌年の昭和42年にはグループ・サウンズのバンド『ザ・マイクス』を結成し、2枚のシングル・レコードを発表している。このグループは元ブロードサイド・フォーのメンバーらとともに、末期には今や世界的なベーシスト、山内テツが参加していた。
二人目のヴォーカリストとして加入した高田恭子が、その後ハマクラ先生の作詞作曲による『みんな夢の中』でソロデビューしたのも、何かの縁があったのだろう。
マイク眞木は、その後は音楽活動のみならず、役者になったり、モーター・スポーツの世界でも第一人者出あったりと、活動の場を広げていった。最初の妻である前田美波里との間に真木蔵人をもうけている。
マイク本人の話によれば、マイクがその後の結婚でできた彼の長女が、蔵人の長女と同年であり、同じ幼稚園に通っていたとのこと。常人では少し考えられないような行ないも、彼の屈託のないお人柄によるものか。
-…つづく
第335回:流行り歌に寄せて No.140「若者たち」~昭和41年(1966年)
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