のらり 大好評連載中   
 

■ジャック・カロを知っていますか? ~バロックの時代に銅版画のあらゆる可能性を展開した天才版画家とその作品を巡る随想



更新日2021/08/19
 


 

第10回:独自の路を歩み始めたカロ


フィレンツェで過ごした日々は、カロにとって一つの至福の時期だったかもしれません。高く評価してくれる師匠パリジがいて、次々に繰り広げられる彼がデザインする祭典や、コメディア・デラルテの妙技に身近で触れ合うなど、メディチ家による自由文化都市フィレンツェの最後の輝きと華やかさを満喫できたばかりか、トスカーナ大公コジモ二世のお抱えの版画師として公(おおやけ)の版画集の制作を任され、様々な表現技を身に付け、おまけに表現者としての自らの確かなありようを見出すことまで出来たのですから。

もしかしたらカロは、少し天狗になっていたのかもしれません。奇抜な演出で知られたパリジでさえ、弟子のような存在のカロに、もう少し謙虚に、ありのままの自然や情景をリアルに描く練習を真面目にした方がいいよと説教しているくらいなのですから……

大公お抱えの版画師としての最初の公的な仕事『フェルディナンド1世伝』では、かなり真面目にリアルでオーソドックスな版画表現を展開していましたが、それでも途中で、カロならではの大胆な構図や躍動感を刻印しています。しかし、特に制作を指示されたわけでもない『二人の役者』での実に自由で斬新な表現で大いに自信をつけたのか、本業のコジモ二世主催の祝祭の記録版画、1616年の、大公の娘のクラウディアの許嫁で、やがてウルビーノ公になるフェデリコ・ウバルド・デッラ・ロベッレがフィレンツェを訪れた際に行われた歓迎式典『美の戦い』という騎馬群舞劇を記録した版画の連作では、若干羽目を外しているように見えます。

このイベントは、ギリシャ神話の神々をモチーフにしたもので、大勢の騎馬と人による群舞と4つの神々の山車(だし)との絡み合いで構成され、アンドレア・サルバドーリの脚本、ジウリオ・パリジが山車や衣装を含めた総合デザインを担当して『愛の戦い』と同じく、サンタクローチェ教会の前の広場で行われました。

前回と同じく、趣向を凝らした山車や奇抜な衣装を着た人々が登場するもので、今でいえばオリンピックの開会式のような若干の物語性を込めたマスゲーム的な空間ショーです。山車は、パルナッソス山の詩神、海の女神、太陽神、愛の女神をテーマとしたものですが、カロが描いた版画を見ると、はたしてパリジのデザインをちゃんと踏襲しているのか、とつい思ってしまうような羽目の外し方をしています。カロにとっては『愛の戦い』とそれほど大きな違いがあるとは思えなかったからかもしれません。

10_01-01

 

10_02-01

 

10_03-01

 

10_04-01


最初の山車がパルナッソス山の詩神、そのあと順に、海の女神、太陽神、愛の女神、ということなのですが、パルナッソス山はとても山車には見えず、まるで地面に根を下ろした小山のようです。よく見れば、ミューズたちの住処であるパルナッソス山には、チェロやリュートのような楽器を奏でている人や笛を吹いている人や歌っている人たちなどがいますし、天馬ペガサスの脚もとからは、溢れ出る詩心とでもいうのでしょうか、実際にそんなことができたのかどうか、水が噴水のように吹き上がっています。

それでなくともペガサスが遠くにいて小さく見えるような、こんなにたくさんの人が乗る大きな岩山のような山車を、一体どうして曳き回すのか? これではカロの勝手な拡大解釈が施されているとしか思えません。

2番目の海の女神は、まだしも山車らしさがありますけれども、しかしよく見れば、山車に乗っている人たちは、どうやら半身を水に沈めているようですから、これは大きなプールのようなものだったということなのでしょう。それにしても海の神ネプチューン、あるいはポセイドンを表す三又の槍を持った連中の体がやたらと大きく描かれていて、これはほとんどカロの幻視を版画にしたものなのだろうかと思ってしまいます。

その奇妙さは3番目の太陽神の山車でも同じで、山車に乗っている人たちの体の何倍もある巨人のような太陽神は、実際には彫刻のようなものだったのか? などといろいろ考えずにはいられませんが、主役である太陽神は、いろいろと演技をしたりする必要もあったでしょうから、実際のイベントではおそらく人間だったでしょう。だとすればこれも、できればこういう感じであって欲しいというカロの願望的妄想が加味されたということでしょう。

4番目の愛の女神にいたっては、中空に浮かんでいて、これはもはや山車の体をしていません、裸の女神たちもまるで天使か妖精のようです。羽根の生えたキューピットもいますが、みんな軽やかに雲の上にいます。そういう風に感じさせるような演出がほどこされていたということかもしれませんが、これははっきり言って記録版画の枠を大きくはみ出ています、カロに言わせれば、パリジの意図を増幅して描けばこうなるということなのでしょう。

カロの独断は次の版画ではますます昂じています。進行するイベントの一場面を描いたもので、構図としては先のイベントの『愛の戦い』の群舞展開プロセス図と同じような手法を用いていますが、驚くべきは登場人物の多さです。いったい何人の人が描きこまれているのでしょう。とても数え切れません。それより何よりサンタクローチェ広場に設置された円形野外劇場に、こんなに多くの人が入れるはずがありません。

当時のフィレンツェは、今ほど建物が立て込んではいなかったとしても、それでも、この古都の中心部の宮殿や教会や広場などの概要は現在とそれほど大きく変わっていません。現在のサンタクローチェ広場もかなり広いですが、それでも50×100メートルほどです。

10_05-01


そこに収まるはずもない、数え切れないほどの多くの人間を描き入れ、しかも山車を曳く巨人たちの大きさときたら、群舞の中の豆粒のような人間の一体何倍あるでしょう。騎馬よりも明らかに大きく、ここまでくると、これはもうリアリズムというものを完全に無視しているとしか言えません。

でもカロはリアルな絵が描けないわけではありません。だとしたら、どうやらカロはわざとそうしたとしか考えられません。どうしてでしょう? 理由はおそらく3つあります。そしてそこにカロの意志が浮かび上がります。


1つはこのスケールの空間での群舞を、もしリアルに描いたとしたら、おそらく面白くもなんともないだろうということです。群舞の陣形はわかっても、そこで何が行われているかなどわかるはずがありません。ですからカロは、そこで行われているイベントが群衆にもたらしているエモーションそのものを描くには、こうするしかないと考えたのだろうということです。

絵や視覚芸術の目的は、ありのままの情景をそのまま描写することにあるのではありません。画家の眼に映る景色や対象の中から最も強く心を打つ何かを、あるいは、このような美や驚きや情動があるよと、作品を見る人の心にもたらすことにこそ、視覚表現の妙があります。カロはそのことをはっきり自覚していたのでしょう。そうでなければここまでのデフォルメはできません。


2つ目の理由は、カロが自らの技量を誇示したかったからだろうということです。この時期にカロは、版画技術を盛んに開発し研磨しています。銅版画にはいくつかの基本的な技法があります。ドライポイント、あるいはエングレービングという技法ではビュランという、細くて鋭い彫刻刀のような道具で銅板にダイレクトに絵を彫ります。

エッチングという技法では銅版に蝋やワニスなどを塗り、それを先の尖った道具で削り取るようにして絵を描き、それを強い酸性液などに浸けて削り取った部分を腐食させて凹みをつくります。

メゾチントはドライポイントのように彫るのではなく、銅版面に特殊な道具を用いて微細な傷をつけて刷った時に作品に繊細な陰影やそのグラデーション効果をもたらす技法です。

どの技法も銅版に凹みをつけ、そこにインクを刷り込んで、表面のインクを拭き取り、それに紙を乗せて圧力をかけて凹みに残っているインクを紙に吸わせて、刷り上がった時に、描いた部分だけが黒く印刷されるようにするというのが銅版画の基本的な仕組みです。

カロはその全ての技法、主にドライポイントにおける道具を工夫したり、エッチングで銅板の表面に塗るワニスの硬さをいろいろ試したりしています。硬いワニスを塗れば鋭いビュランでなければワニスを削り取れませんから、自ずと描かれる線は細くなります。どうやらこの版画ではカロは、そうすることによってしか実現できない、誰も実現したことがないような細かな線による表現を試したかったのでしょう。このような無数の人間を、わずか23×30センチの画面に描き入れることは、カロが開発したこの技法によってしかできません。ですからカロは自らの技術を誇示するかのように円形劇場の中や観客席に無数の人間を描いたばかりか、その周囲や建物の上にも、どうだと言わんばかりに、実に多くの人間を描き込んでいます。確かにこれは、カロにして初めて実現できたことだったでしょう。これを初めて見た人たちは、さぞかしカロの超絶技巧に驚いたに違いありません。


3つ目の理由は、1、2の理由と重なりますけれども、その当時カロは半ば得意の絶頂にあって、頭の中に、大公お抱えの版画師としての一般的な役割や常識、師匠のパリジへの遠慮などが入り込む余地がなく、というより、それらを超えて自分の表現を展開することを優先していいはずだ、自分はそういうレベルの存在になったのだという自覚と確信に満ちていたのではないかということです。

つまりカロは自分が、版画家として身に付けるべきことを既に得たのみならず、既存の版画師のレベルを超えて新たな表現の地平を切り拓くに値するアーティストであり、そこにこそ自らの役割があるのだという覚悟のもとに、役割やリアリズムを超えた表現をしたのではないかということです。

自信と確信と覚悟は一流のアーティストにとってなくてならないものです。それがなければ怖れや既成概念や現実や限界を突破して孤高の路を自然体で歩むことができないからです。そしてカロは、この頃、そのような路を歩み始めたように思います。

面白いことにカロは、この連作では、本来はあり得ないこと、というか、余計なことを一つしています。最後に自分の肖像画を載せているのです。そこに描かれているのは、まるで、これを創ったのはこの私だというカロの声が聞こえてきそうな、得意げなカロの姿です。

 

10_06-01


-…つづく


 

 

 back第11回:劇的空間

このコラムの感想を書く


谷口 江里也
(たにぐち・えりや)
著者にメールを送る

本や歌や建築、さらには自治体や企業のシンボリックプロジェクトなどの、広い意味での空間創造を仕事とする表現哲学詩人、ヴィジョンアーキテクト。
主な著作に『鏡の向こうのつづれ織り』『鳥たちの夜』『空間構想事始』『天才たちのスペイン』、主な建築作品に『東京銀座資生堂ビル』『ラゾーナ川崎プラザ』『レストランikra』などがある。
なお音楽作品として、シンガーソングライター音羽信の作品として、アルバム『わすれがたみ』『OTOWA SHIN 2』などがある。

アローAmazon 谷口江里也 著作リスト

アロー未知谷 刊行物の検索 谷口江里也
アローElia's Web Site [E.C.S]


■連載完了コラム
明日の大人ちのためのお話[全12回]

鏡花水月 ~ 私の心をつくっていることなど (→改題『メモリア少年時代』[全9回+緊急特番3回] *出版済み

ギュスターヴ・ドレとの対話 ~谷口 江里也[全17回]

『ひとつひとつの確かさ』~表現哲学詩人 谷口江里也の映像詩(→改題『いまここで  Here and Now』) [全48回] *出版済み

現代語訳『枕草子』 ~清少納言の『枕草子』を表現哲学詩人谷口江里也が現代語に翻訳 [全17回]

現代語訳『方丈記』~鴨長明の『方丈記』を表現哲学詩人谷口江里也が現代語訳に翻訳 [全18回]

現代語訳『風姿花伝』~世阿弥の『風姿花伝』を表現哲学詩人谷口江里也が現代語に翻訳 [全63回]


岩の記憶、風の夢~my United Stars of Atlantis [全57回]
*出版済み

もう一つの世界との対話~谷口江里也と海藤春樹のイメージトリップ [全24回]
*出版済み

鏡の向こうのつづれ織り~谷口江里也のとっておきのクリエイティヴ時空 [全24回]
*出版済み

随想『奥の細道』という試み ~谷口江里也が芭蕉を表現哲学詩人の心で読み解くクリエイティヴ・トリップ [全48回]
*出版済み

バックナンバー
第1回:ジャック・カロを知っていますか?
第2回:カロの最初の版画
第3回:ローマでのカロ
第4回:フィレンツェでの幸運な出会い
第5回:最初の公的な仕事
第6回:地獄絵図
第7回:愛のキューピットがトスカーナにやってくる
第8回:祝祭都市フィレンツェ
第9回:ジャック・カロの発見


■更新予定日:隔週木曜日