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■ジャック・カロを知っていますか? ~バロックの時代に銅版画のあらゆる可能性を展開した天才版画家とその作品を巡る随想



更新日2021/09/02 
 


 

第11回:劇的空間


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これは、1617年にコジモ二世の妹のカテリーナ・メディチと、マントヴァ公フェルディナンド・ゴンザガの婚姻を記念してウフィチ宮殿の中のメディチ劇場で行われた三幕からなる演劇『ティレーノとアルネアの解放』のインテルメディオ(劇の幕間に上演される音楽舞踊)を表したカロの三点の連作版画の最初の一枚です。脚本はアンドレア・サルバトーレ、ジウリオ・パリジが総合デザインで、『愛の戦い』と同じです。

カロが、このような大空間を表す個有の表現スタイルをすでに確立していたことがわかります。とりわけ近景に空間を額縁のように飾る人物や装飾を配すことによって、画面に動的な臨場感と遠近感をもたらすのはカロの発明と言っていいくらいの方法です。この画面構成上の仕掛けによってこの場面の演劇性が高まります。

ちなみにこの演劇が上演された前年の1616年には、スペインのセルバンテス、イギリスのシェークスピアが亡くなっていますが、この頃ヨーロッパでは演劇が大人気でした。そして歴代のメディチ家の大公が盛んに演劇を開催したフィレンツェはその中心でした。ヨーロッパの芸術の最高峰に位置する今日のオペラの原型が創り出されたのもフィレンツェでした。ギリシャ的な物語をモチーフにしてヤコポ・ペーリ(1561~1633)がセリフを歌曲にして表現した『ダフネ』を創作したのがその最初と言われています。

フィレンツェには、すでにカロが描いたような祝祭的な空間舞踊劇を行う場所がいくつかありました。サンタクローチェ広場などのように、広場に楕円形の仮設の観客席を設けて、普段は広場として親しまれている場所を特別な劇場空間に変えてトルネオ(騎馬による舞踊劇)などが行われる特別なイベントもありましたし、ベッキオ宮殿には、五百人会議の広間、と呼ばれた大空間がありました。さらにはまたベッキオ宮殿とピッティ宮殿をつなぐ場所に設けられたメディチ劇場のような屋内の大劇場もあり、盛んに音楽と群舞が一体となった催しが行われていました。

カロの版画を見るとわかるように、メディチ劇場は画面の奥の方に舞台として用いることができるステージ空間があり、そこから階段で大きな広がりを持つ平場に降りて来れるようになっています。その空間の全体を包み込むようにして観客席があり、しかも演者達を観客が取り囲んでもいて、演者と観客が一体化しているのがわかります。このような空間であれば観客も歌劇に参加しているような感覚になりますから、さぞかし楽しかったでしょう。



次の版画は第二の幕間劇を描いたものです。


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カロの表現はここでもリアリズムを超越しています。中央に大量に水を噴き上げていたり、窓から火が吹き出ていたりする二つの塔がありますが、塔の上にいる人、あるいは悪魔の大きさを見れば、塔はどんなに大きかったのだろうと思います。

画はいわゆる一点透視図法を用いていて、二つの塔の向こうにある崩れかけた門の奥に、全ての放射線状の描線が収束して消える表現方法によって遠近感を強調しています。

『ティレーノとアルネアの解放』は、トスカーナの始祖ティレーノが、魔術によってイスキア島に幽閉された愛するアルネアを救い出す物語で、第二幕は、ティレーノの一途な愛を冥界の魔王プルートが妬み、自らが招集した移り気な愛の軍隊、によって真の愛の戦士たちを駆逐すべく戦いを挑むという筋書きです。

良く見ると尻尾をはやし槍を持った悪魔たちがいたるところにいます。手前の方に招集された悪魔軍がいますが、その向こうはどうやら水面のようですから、そこは冥界の地獄とこの世とを分かつ三途の川アケロンなのかもしれません。

それにしても舞台装置が壮大です。舞台の前半分には古代都市の廃墟のような建築が幾重にも構築されていて、建築と建築の間からは、役者が出入りできるようになっているようです。しかし実際問題として、このスケールの舞台がメディチ劇場で可能だったかは疑問です。


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愛のキューピッドのとりなしで愛を巡る戦いが終わり、ティレーノとアルネアがめでたく結婚するという、三番目の幕間劇を描いたカロの空間はさらに壮大です。四つの大神殿が左右対称に配され、その向こうに半円形の大きな宮殿のような建築が見えます。これはもう都市空間、それもローマでもはたして、と思われるほどの都市的大空間です。登場している人物の数も尋常ではなく、その上、キューピッドが天空を舞っています。

もしこれと似たようなことをやろうとすれば、おそらく背景の円形宮殿や天使たち、あるいは四番目の神殿あたりまでは、透視図法を用いて舞台の奥の平面に絵として描いたのでしょうし、手前の左右対称の神殿は書き割りにするしかないでしょう。というのは、最初の絵では舞台に構造物は何もありませんし、二番目の舞台装置は廃墟と塔と三途の川、そして三番目と、舞台は幕の間に素早く場面を変えなければなりませんから、素早く移動できるものでなければならないからです。

しかしカロは、ここでは実際の演劇の舞台を版画に描き残そうしていません。むしろはっきりと、この演劇で展開される物語の空間、つまり幻想空間を描き表そうとしているように見えます。人間とは不思議な生き物です。人間は言葉という、自分が見たことや聞いたこと、あるいは思ったことなどを他者に語り伝える不思議な方法を編み出しました。そして言葉は、たとえばキューピッドや悪魔というような、あるいは天国であれ地獄であれ、目の前には存在しない架空のものまでも言い表す力を持っています。

そしてその言葉を聞いた人は想像力によって、その言葉から自分の中に自分なりのイメージを思い描くことができます。現実の中にもう一つの幻想的な現実を創り出す演劇は、そのような力の上に成り立っています。物語という特別な創造的時空間は言葉がなければ存在し得ませんし、その物語を生きた人間である役者が、言葉という誰もが理解できるものを用いて語ることによって架空の物語にリアリティが生まれます。

同じように人間は、自分が見たことや思ったことを絵に描いて、それによって他者に伝える方法も手に入れました。それが牛の姿や目の前の景色であれ、あるいは女神や誰も見たことがない地獄であれ、描かれたものがあれば、それを見る人はそれを介してその存在やありようを想像することができます。

言葉や絵という道具、そしてそれを介して目の前の現実の向こうに、そうではないもう一つの世界を想像するという素晴らしい力を人間は持っています。演劇が創る時空間や、それがもたらし得る感動は、言葉や絵などの人間ならではのツールを駆使して表現し、表現されたものを感受し体験して自らの心の内に再現する力や働きの賜物です。そこに人間の心身にダイレクトな感動をもたらす音楽が加われば、それらが見事に共鳴し合えば、演劇やオペラは時にこの上ない感動体験をもたらすことができます。

そのような芸術的、文化的な華をメディチ家が咲かせたフィレンツェの最後の栄華を体験し、その息吹によって自らを育んだカロは、人間が創り出す幻想的時空間の重要性を熟知していたように思われます。つまりカロが描こうとしたのは、演劇やオペラが成立させている幻想的時空間、あるいはそれが人々の心にもたらそうとした感動やその広がりだったのでしょう。そしてその確かさをこそ追求したのがバロックのアーティストたちでした。

そしてまた、スペインやフランスに比べれば武力的には取るに足らない都市国家フィレンツェとトスカーナは、だからこそ、ヨーロッパ最初のオペラをはじめ、演者と観客とが一体になった劇的空間のダイナミズムやそれを創り出すための劇場という装置の創造、さらには街そのものを非日常的な祝祭空間に変えるという文化戦略をとり続けてきたのでしょうし、どこの国にも都市にもできないような美的感動を創り出せる都市であることによって自らの力と存在理由を知らしめることの重要性を強く自覚してもいたのでしょう。

それを積極的に推進し、ルネサンスという人類史的な文化運動を成し遂げ、フィレンツェを文化芸術を資本として生きる花の都として、その歴史を積み上げたメディチ家は、人類史的に見れば、そのような高度な文化資本戦略を展開した稀有な存在だったのだと言えるでしょう。



-…つづく


 

 

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谷口 江里也
(たにぐち・えりや)
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本や歌や建築、さらには自治体や企業のシンボリックプロジェクトなどの、広い意味での空間創造を仕事とする表現哲学詩人、ヴィジョンアーキテクト。
主な著作に『鏡の向こうのつづれ織り』『鳥たちの夜』『空間構想事始』『天才たちのスペイン』、主な建築作品に『東京銀座資生堂ビル』『ラゾーナ川崎プラザ』『レストランikra』などがある。
なお音楽作品として、シンガーソングライター音羽信の作品として、アルバム『わすれがたみ』『OTOWA SHIN 2』などがある。

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バックナンバー
第1回:ジャック・カロを知っていますか?
第2回:カロの最初の版画
第3回:ローマでのカロ
第4回:フィレンツェでの幸運な出会い
第5回:最初の公的な仕事
第6回:地獄絵図
第7回:愛のキューピットがトスカーナにやってくる
第8回:祝祭都市フィレンツェ
第9回:ジャック・カロの発見
第10回:独自の路を歩み始めたカロ


■更新予定日:隔週木曜日