■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から


Grace Joy
(グレース・ジョイ)



中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。




第1回~第50回まで

第51回:スポーツ・イベントの宣伝効果
第52回:国家の品格 その1
第53回:国家の品格 その2
第54回:国家の品格 その3
第55回:国家の品格 その4
第56回:人はいかに死ぬのか
第57回:人はいかに死ぬのか~その2
第58回:ガンをつける
第59回:死んでいく言語
第60回:アメリカの貧富の差
第61回:アメリカの母の日
第62回:アメリカの卒業式
第63回:ミャンマーと日本は同類項?
第64回:ミャンマーと民主主義の輸入
第65回:日本赤毛布旅行
第66回:日本赤毛布旅行 その2


■更新予定日:毎週木曜日

第67回:日本赤毛布旅行 その3

更新日2008/07/03


自由行動の日に、生徒さんは押し付けられた、どちらかといえば古い日本文化体験から解放され、最新アニメやゲームを買いに繁華街に出かけたり、どこでどう調べたのかメイド喫茶や同性愛の人が集まるゲイバー(これもひとつの日本文化ですが)などに繰り出して行きました。

私も生徒さんから解放され、昔からの友達に会いに行きました。友達といっても私が大変尊敬しているお琴のI先生です。I先生は駅まで迎えに来てくださり、先生の家までゆったりとした散歩をしながら会話を楽しみました。

私が初めて日本を訪れたのは、ミシガン州の大学を卒業した直後、21歳のときでした。今は昔も昔、大昔のことです。

一応学校で日本語を2学期学びましたが、ひらがな、カタカナそれにほんの少しばかりの漢字を覚えた程度で、会話の方はといえば、いま思うと顔から火が出るくらいお粗末なものでした。でも、若さの特権でしょうね、日本人の友達をたくさん作ることができたのです。

初めてお琴を聴いたときのことは忘れられません。日本に着いてからまだ1ヵ月と経っていない、夏の暑い盛りのことです。初めて異郷で暮らすときに誰でも襲われるカルチャーショックとホームシックが入り交ざった孤独感に捕らわれていたのでしょう、そんな環境に身を置き、孤独に浸るのは結構良いものです。借り物のラジオカセットのスイッチを入れダイヤルを回していたところ、神様の啓示のようにお琴の音色が流れてきたのです。

その時、お琴のことはなにも知りませんでした。透明さと力強さが同居している音色の美しさに呆然としてしまい、世の中にこんな清らかな音楽が存在するのかとただただ感動するばかりでした。全身鳥肌がたち、頭の中がスーッと空になっていくような気持ちになったのです。

友達になりかかっていた日本人にジャパニーズ・ハープのことを説明し、始めてそれが「お琴」という楽器であることを知りました。それじゃと言って彼女はお琴のリサイタルに私を連れて行ってくれたのです。そこで聴いたお琴もすっかり私を魅了しました。これも偶然ですが、彼女の親友にお琴の先生がいたのです。

私は無理に頼み込んで、彼女の友達、I先生に弟子入りしました。今思えば、私のようなド素人を教えるにはI先生は立派過ぎる方で、何年も練習した上級クラスのお弟子さんを教えておられましたが、快く私を弟子にしてくださいました。

I先生に付き添われて、お琴製作者の仕事場を訪れました。仕事場といっても純日本風の狭い普通の住宅で、そこのおじいさんがいくつかのお琴に弦を張り、聞き比べを許してくれたのです。私は分不相応な大金を、事実私がアメリカから持ってきたトラベラーズチェックのすべてに近い金額でしたが、天にも昇る気持ちで自分のお琴を手に入れたのです。

4、5歳からピアノを習って(習わされて)いたせで、楽譜を読むことができたのは多少助けになったかもしれません。1年足らずでしたが、毎日何時間もお琴を練習しました。よく近所の人が我慢してくれたと思います。I先生も普通のレッスンより何倍もの時間を私に割いてくださいました。

I先生はご自宅に、自分のお弟子さんや他の流派のお師匠さん4人を私のために招いておいてくれました。その日は丸一日、お琴尽くしで過ごしました。独奏、ニ重奏、5人での合奏と帰りの電車のなかでも頭の中にお琴の音色が響き渡ったほどでした。

お琴は初めての日本と若かった日々への郷愁を呼び起こしました。そしてお琴とI先生と出会ったことがどれだけ幸運だったかに思いをはせたのです。

 

 

第67回:スポーツ・ファッション