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■インディアンの唄が聴こえる
 

第7回:サンドクリーク前夜 その3

更新日2023/02/23

 

インディアンのあらゆる部族ごとの社会、文化は、文化人類学者、言語学者の手によって詳しく分かってきた。一方、インディアンの歴史はインディアン自体の移動が激しかったせいもあり、不明なところが多い。文字を持たない民族の宿命とも言える。

全くの素人の興味本位の目の荒い調査(とも呼べないくらいのものだが)、遺跡観光に毛のはえた程度、それに触発された読書程度の印象で言うのだが、アメリカ・インディアンは中南米で栄えたインカ帝国、マヤ文明、アステカ文明のような大きな遺跡を残さなかったのはどうしてだろう?という疑問を強く持つ。

確かに、BC400年くらいにホープウェル(Hopewell)文化が生まれた。それ以前に、主に狩猟民族のアデナ(Adena)文化と名付けた盛り土をしただけの古墳文化がオハイオ州、ケンタッキー州にあり、アデナ文化を引き継ぐようにホープウェル文化がイリノイ川沿いに起こり、700年ほど続いたとみられている。このホープウェル文化は大きな古墳を残した。小さなもので直径2030メートル、大型のものになると120メートルの盛り土古墳がある。ということは、それだけの人を集め、土を運ばせる権力者がいたことになる。だが、ユカタン半島のチチェンイッツァ(Chichén Itzá)のピラミッド群、神殿のような構築物ではなく、素人目には、ただの土の丘にしか見えない。

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カホキアの古墳
セントルイス近くミシシッピー河畔にある。1050年から1350年頃まで栄えた

その後起こったミシシッピー流域の文化は、1500年頃最盛期を迎えたと言われている。ミシシッピー文化では、はっきりと農耕、主にトウモロコシの栽培を主にしていた。現在のセントルイスの東側、ミシシッピー川の東にカホキア(Cahokia)という町があったことが知られている。カホキアにはAD1000年頃に建てられたとみられる古墳がある。現在『カホキア・マウンド州立史跡公園』になっている。

底辺の規模だけから言えばエジプトのピラミッドより大きいということになるが、いみじくも“マウンド”と名付けているように、野球グラウンドのピッチャーマウンドと同類のかすかに盛り上がったなだらかな丘程度のものだ。AD1200年頃には、このカホキアに3万人もが住んでいたとみられる。それだけの人が食べていけるそれだけの作物の収穫があったのだろう。しかし、この丘を観て、マヤやアステカの、ましてやエジプトのピラミッドを思い描くには、果てしない想像力が必要だ。 

それにしても、アメリカの中西部、南部の大平原にどうして強力な王国が生まれなかったのだろう。自然条件は広大な王国を生むに足るものだったと思うのだが…。 

よく分からないのは、世界のどの民族を見ても、狩猟民族は移動性が強く、如何に強権の首長がいたとしても、遺跡、古墳を残さなかったことだ。古墳、遺跡を残すのは、その地に定着した農耕民族に限られている。ホープウェル文化も次第に農耕化していったのではないかと想像する。 

いずれにしろ、ユカタン半島のジャングルの中に出現したマヤ文明のような広域に及ぶ国は成立しなかった。

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メキシコ、ユカタン半島にあるピラミッド、チチェンイッツァ
40もの都市があり、ユカタン半島からグアテマラ、ホンジュラス、ベリーズまで広範囲に及んだ

今、観光名所になっているインディアンの遺跡、メサ・ヴェルデでは、クリーク沿いの崖に幾つも洞穴を掘り、合同マンションのように寄り添って暮らしていた様子が伺える。アナサジ(Anasazi)文化の代表と言える遺跡で、AD600年頃から1200年頃まで栄えた。

メサ・ヴェルデは“フォーコーナーズ”(四つの角;四角く人工的に州境を決めた、コロラド、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコの4州の角)のそのすぐ近くにある。現在50ほどの住居が残り、ハシゴの登り下りさえ厭わなければ、当時のインディアン住居を観ることができる。

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メサ・ヴェルデ
崖の中腹に洞穴と日干しレンガで集合住宅、マンションを築いた

私などが考えることは、何を好き好んでこんな不便な崖に横穴を掘って暮らすのだ、家の出入りはハシゴに頼り、食糧、水も横穴まで運び入れ、火を起こせば煙るような洞窟でワザワザ暮らすこた~ないだろうに…と、思わずにいられないのだ。

この崖、谷間の集落でも300500人程度しか暮らせなかっただろう。おそらく大半はトウモロコシ畑の近く、井戸の近くに通常住み、暮らしていたのではないか。あのような不便極まりない洞窟に住む理由はただ一つ、外敵の襲撃を恐れてのことだろう。

メサ・ヴェルデの洞窟が無人になったのは1300年頃だと言われている。そこに定住し、あれだけの洞窟を鉄器を使わずに掘り込み、何世代も住んでいたにもかかわらず、そこを捨て、どこか他の地に移住して行ったのは、外敵、他の部族が襲って来ることが度重なったからではないか。外敵である他の部族が攻めて来たとき、食糧を保存してある崖っぷちの横穴に逃げ込み、即ハシゴを外したことだろう。もちろん、旱魃にも襲われたことだろう。谷川の水、井戸水も枯れたことが主な原因だったとする学者もいる。

当時、まだ馬は使われていなかったから、移動はもっぱら自分の足に頼らなければならなかったはずだ。

このアナサジ文化を継承してると言われているのが、ホピ・テワ族だと言われている。


個人的な偏見かもしれないが、私はいわゆる“民芸品”の価値を認めない。柳宗悦が唱えた民芸品、日本古来の農家が使っていた道具や器に美を見出す感覚には共鳴するが、その後の観光ブームに乗り、大量生産された民芸品のコピーには売らんかなの匂いがついて回り、ショーバイ民芸品に成り下がっているように思えるのだ。民芸品の美しさ、価値は生活様式と密接に関連していて、例えば、器一つを現代的な家に持ってきても、その器古来の美しは生きてこない性格のものだと思うのだ。

インディアン居留地区にも、近隣の町の路上や広場にも、インディアンの手芸、工芸品、壺や藁で編んだバスケット、売れ筋はアクセサリーらしく、青緑色のトルコ石を多用したネックレス、ブレスレット、イアリング、指輪などは丁寧に作られていて、美しい。だが、これは伝統的民芸品ではなく、現代手工芸品に当たるのではないだろうか。  

それにしても不思議なのは、どの部族にしろ、“金”に全くと言って良いほど拘泥しなかったことではないか。中南米のインディオの王族、酋長は、金で身を飾り、造形物を作った。北米インディアンは金で身を飾らなかった。金が権力の象徴にもならなかった。

ヨーロッパ人ほど、金狂いした民族、部族はいないのではないか。アメリカに渡ってきたヨーロッパ人たちは、金狂いの先鋒だった。金を得るために、インディアンたちは邪魔者でしかなかった。1グラムの金塊のために、インディアンたちが何人死のうが問題にしなかった。

 

 

第7回:サンドクリーク前夜 その3

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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第1回:消えゆくインディアン文化
第2回:意外に古いインディアンのアメリカ大陸移住
第3回:インディアンの社会 その1
第4回:インディアンの社会 その2
第5回:サンドクリーク前夜 その1
第6回:サンドクリーク前夜 その2

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