■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち


杉山淳一
(すぎやま・じゅんいち)


1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。




第1回~第50回まで

第51回~第100回まで

第101回~第150回まで

第151回~第200回まで


第201回:ややこしいきっぷ
-長崎編・序1-
第202回:三重県の百代目
-のぞみ19号・近鉄名古屋線-

第203回:大和路を北へ
-近鉄橿原線-

第204回:塔のある街
-近鉄京都線-

第205回:京都駅発周遊コース
-京都市営バス・阪急京都線-



■連載完了コラム
感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■著書

『知れば知るほど面白い鉄道雑学157』
杉山 淳一 著(リイド文庫)


■更新予定日:毎週木曜日

 
第207回:嵐山のターミナル -京福電鉄嵐山線-

更新日2007/09/06


渡月橋を渡り終えるとみやげ物街になった。ここが嵐山のメインストリートらしい。土産物屋も人通りも多く、京福電車の駅に近づいているらしい。しかしどんどん歩いても駅のような建物は見つからない。キョロキョロしながら歩けば商魂たくましい関西の土産物屋に捉まってしまうかもしれないと警戒し、なるべく真っ直ぐ前を向いて歩いた。どうやらそれがいけなかったようで、私がもっとも大きな土産物屋だと思い、急ぎ足で通り過ぎた建物が京福電鉄嵐山駅だった。

駅舎は道路から少し離れたところにあって、改札口付近は暗く、ホームは駅舎を潜り抜けた向こう側にある。道路側は売店が並び、京福電鉄で嵐山を訪れ、嵐山を立ち去るものは、土産物屋を素通りできない仕掛けである。阪急嵐山線の大きな駅舎と、その周辺の閑散とした様子とは大違いだ。大阪商人の阪急は京都人の商売に遠慮しているのかもしれない。いや、この世で商人が遠慮なんてするだろうか?


嵐電の嵐山駅。足湯がある。

私はまだ旅の途中で、しかも本来の目的地へ向かってもいないけれど、早くも土産物の菓子を買った。これは福岡で訪問する会社への手土産にするためだ。東京者が福岡へ行く時に京都の土産菓子を持っていく、という組み合わせが面白い。正直に告白すると東京で用意し忘れた。でも、京都土産のほうが珍しくて喜ばれるかもしれない。

その福岡の会社がニンテンドーDS向けのゲームを作っていて、おそらく何度も京都の任天堂本社を訪れていることを、このときの私はすっかり忘れていた。ともあれ、私は菓子折りを旅行鞄に詰め込んでから京福電鉄の窓口に行き、500円の一日フリーきっぷを購入した。

京都に福をもたらすと書いて京福電鉄。縁起のいい名前だが、社名の福は幸福の福ではなく、福井県という意味だ。しかし京阪、阪神のように京都と福井を結ぶ路線を計画したわけではない。肩透かしを食わされたと感じるけれど、もともとは京都電燈という電気会社の鉄道事業部が前身である。

1988(明治21)年に創業した京都電燈は、琵琶湖に水力発電所を建てて京都と福井に電力を供給した。またそれぞれの地で電力を利用した事業を手がけた。そのなかに鉄道事業があった。ところが1942(昭和17)年に戦時統制令によって京都電燈は電力事業を他社に譲渡して解散する。残された鉄道事業は京都と福井で鉄道を経営する会社、つまり京福電鉄として継承されることになった。


こちらの電車は少し新しいようだ。

京福電鉄は散在する鉄道路線を持つという珍しい会社で、総延長は120キロメートルにも達した。しかし現在の路線は"嵐電"として親しまれている嵐山線と、途中の帷子ノ辻から北野白梅へ分岐する北野線、叡山ケーブル、叡山ロープウェイのみである。福井県の路線は安全装置の不備による正面衝突事故を2度も起こし、それが原因で国から運行停止処分を受けた。これを機に京福電鉄は福井県の鉄道事業を撤退した。その路線は現在、えちぜん鉄道という別会社が引き取って運行している。また、その後の経営難を見越して叡山本線と鞍馬線は京阪電鉄に譲渡され、現在は叡山電鉄として運行されている。

京福電鉄は京阪電鉄の傘下に入り、トカゲの尻尾切りのように路線を手放してなんとか生き延びてきた。もっとも、嵐山本線は京都の中心である四条大宮を起点とし、観光名所の嵐山を結ぶ好立地で京都の人々に愛されている。京福電鉄は京都人に救われたといっていい。

薄暗いコンコースからホームに向かうと、丸みを帯びた古い路面電車が1台停まっていた。線路は3本、ホームも3面あり、開業当時は大規模なターミナルだったと推測できる。ホームの先には"ゆ"と書いた暖簾があって、覗いてみるとそこは足湯だった。淵にギッシリと人が並び、丸めた背中をこちらに向けていた。さすがは平安時代から栄えた観光地だと思ったが、実は嵐山に温泉が出た年は2004年。たった3年前のことである。嵐山の長い歴史に対して、技術の発達で検知と掘削が可能になるまで、温泉は大地に封印されたままだった。


沿線は住宅街だ。

すでに混み合っている電車をひとつ見送って、次の電車に乗った。こちらはちょっと近代的で、直線の多い電車である。車内は日曜日の混雑で座れる場所はなかった。それを幸いに私は運転台の後ろに立つ。電車は路面電車だが、嵐山辺りは専用軌道になっている。しかも複線区間になっており、運行間隔は10分。京都の中心地、四条大宮までの所要時間はわずか20分である。

ホームの長さから推察するに、通勤時間帯や観光シーズンは2両連結で走りそうだ。山陰本線や阪急に挟まれているが嵐電の競争力は十分だ。電車の加速は力強い。発車するたびに身体が後ろに引かれる感じがする。専用軌道のためか路面電車にしてはスピードも速い気がする。

線路の周囲は民家が立ち並んでいる。その様子は東急世田谷線や都電にも似て懐かしい。終点は観光地だが沿線は住宅地。それは阪急嵐山線とも共通している。ただ、嵐電のほうは民家との距離が近いらしく、線路ギリギリまで植木を出している家を見かけた。おばさんが鉢植えに水をやっている。しゃがんでこちらに背を向け、線路側にドンと尻を突き出していた。こちらの電車にぶつかりそうだとヒヤヒヤしたけれど、運転士さんは警笛も鳴らさず通り抜けた。何年もの付き合いでお互いの距離感を掴んでいるのだろう。のどかな光景である。

鹿王院、車折神社、有栖川と、古都に縁の深い駅名が続く。しかし沿線風景は変わらず民家が続いている。現代の町並みに名所旧跡が共存しているところも京都らしい情景かもしれない。嵐電は古い電車がよく似合うけれど、将来、LRTなどと洒落た電車が走っても、ちゃんとこの町並みにとけ込めそうな気がした。

帷子ノ辻は「かたびらのつじ」と読む。この駅は駅の上にビルがある。その壁面にはファッションプラザと100円ショップの店名が並んでいた。このまま嵐山線に乗っていくと京都へ戻れる。しかし帷子ノ辻から分岐する北野線を素通りできない。京都で寄り道の寄り道が続いている。


帷子ノ辻駅へ。

-…つづく

第202回~行程図
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