第28回:西部の起業家 バッファロー・ビル・コディ その4
彼のあだ名、ニックネームが“バッファロー・ビル”と付けられたのは、東から西海岸までの鉄道敷設工事が猛烈な勢いで進んでいた時、そこで働く労働者にバッファローの肉を供給したことによる。主にカンサス州でのことで、1867年から翌年の1868にかけてのことだ。毛皮目的ではなく、日々移動して行く鉄道前線へ食料用の肉を提供したのだ。
これも鉄道会社の記録を執拗な丹念さで調べ上げた好き者歴史家によると、18ヵ月間に4,268頭のバッファローを狩猟し、それを鉄道会社が買い取ったとある。もちろん、事前にパシフィック鉄道とバッファローを肉として供給する契約を結んでいた。こんなところが、彼に先見の明があるところだ。
確かに毛皮は高く売れるのだが、殺したバッファローの皮を剥ぎ、収集地まで運ばなくてはならない。その上、流れ者競争相手が大勢いて、買い上げ業者に買い叩かれる。それより需要が安定している肉目的の方が有利だと判断したのだろうか。それに鉄道敷設の前線が常に前進移動しているので、狩猟場もそれに連れて移動し、常に新しい狩猟場でバッファローを獲ることができる利点があった。
これも好き者歴史家の記録で知ったのだが、バッファーロー・ビルがこの時使用していたライフルは大型のスプリングフィールド・モデル1866年型で、銃に付けられたニックネームはなんとヴィクトル・ユーゴーが書いた戯曲『ルクレツィア・ボルジア』(Lucrezia Borgia;ガエターノ・ドニゼッティがオペラにした)というなんとも奇妙な悲劇の主人公の名前なのだ。
悪名高いチェーザレ・ボルジアの妹、“ルクレツィア・ボルジア”の名前をライフルの愛称にするとは、一体なんという発想であろう。かなりのこじつけになるが、チェーザレ・ボルジアが持っていた刀に彫金やら宝石やらの嵌め込みがゴチャゴチャあり、そこに赤い牡牛が象られている。そんな所以からバッファロー・ビルの愛用ライフルの名にしたのだろうか。これは100%私の想像だが…。
ともかく、今このライフル“ルクレツィア・ボルジア”が見つかり、オークションにでも出れば巨額で落札されるに違いない。もどきはたくさん出回っているのだが…。
1869年、バッファロー・ビルが23歳になった時、ネッド・バントラインという男と出会った。このネッドが『ニューヨーク・ウィークリー』に“バッファロー・ビル、辺境のキング”という虚実こもごもというより、当時の西部の辺境にさもありなんというお話をビルの身に起こったこととして、80~90%創作した記事を発表した。これが大いに受けた。今も昔も、ともかく大声でオモシロおかしく叫んだことを大衆は受け入れるものだ。これがバッファロー・ビルの名をアメリカ全土に広げた最初になる。
このネッドの記事は本になり、フレデリック・ミィーダーがシナリオにして『バッファロー・ビル』として上演した。もちろん、ビル自身もステージに登った。このショー的演劇は当たりを取った。そのことに味をしめたビルは、自分の名前が売れることを知ったのだろう。自分自身に商品価値を見出したのだ。
ビルはショービジネスに乗り出したのだ。自分自身のショーを打つ前に彼の友人であるテキサス・ジャック・オモハンドロと一緒に『大平原の斥候』(The scout of the Prairie)という室内劇場用のショーに出た。出演したというより、そのショーの企画、演出の一部にまで加わっていた。もちろん、宣伝要員としてネッド・バントラインも一緒だった。このショーはシカゴで大当たりを取った。
この時、バッファロー狩猟時代の朋友、ワイルド・ビル・ヒコックを呼び、ショーに参加させた逸話が残っている。ワイルド・ビルは実際に何ステージか舞台に上ったが、ワイルド・ビルは楽にお金を稼げるにしろ、自身が全くショービジネスに、ましてや脚光を浴びるステージに立つのに向いていないこと、西部の辺境の町で時に保安官、時にギャンブラーで過ごす一種の流れ者の生き方しかできないことを知り、バッファロー・ビルのショーを離れている。
ワイルド・ビルは自分自身をよく知っていたのだ。当代一の拳銃使いとされていたワイルド・ビル・ヒコックは、サウスダコタのデッドウッドのサロンバーでポーカーをしている時、背後から撃たれて死ぬ運命にあるのだが、自分の生き方を貫き、殺されたのだ。
左からワイルド・ビル・ヒコック、中央がテキサス・ジャック
そして右がバッファロー・ビル・コディ(1873年撮影)
起業家であるバッファロー・ビルは、ショービジネスに大きな可能性を見出ししていた。彼にはそんなビジネスセンスもあり、何をどう観せたら受けるかを本能的に知っていた。また、彼には大掛かりなショーを組織する能力も備わっていた。
1874年にビルは“バッファロー・ビル・コンビネイション”(バッファロー・ビル連合)というショービジネスの母体を造った。この時から、ビルは室内の劇場に飽きたらなくなっていたのだろう、屋外の広大なスペースで、実際に馬を走らせ、空砲であるにしろピストル、ライフルを撃ちまくり、インディアンたちを登場させよう、激戦の模様を再現しようという着想が生まれた。
シャイアン族との戦い“ワーボンネット・クリーク”の戦闘を再現したのだ。それには大勢のシャイアン族を雇い、例の羽飾りの付いた帽子というのかボンネットを酋長の頭に被せ、インディアンの戦闘前の踊りを披露し、雰囲気を盛り上げた。
このようなショーにインディアンを出演させたことに対し、インディアンの文化をねじ曲げて広げるものだという非難がある。しかし、合衆国政府のインディアン局が取っている居留地インディアンを押し込める政策こそ非難されるべきで、バッファロー・ビルのショーに主演したインディアンたちは日銭を稼げるショーに参加できることで、ビルに感謝していた。
これはジョン・フォードが西部劇で大量のインディアンをエキストラとして使い、貧困のどん底にあったインディアンを救済したのと似ている。
-…つづく
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