第17回:道さんのこと
更新日2007/02/08
フィリピンを旅していて、マニラとセブのようなリゾート以外で日本人に会うことはまずない。まして日本人が経営している宿やレストランは、マニラかセブに集中している。まさか最後の秘境、パラワン島のサバンに日本人が住んでいるなんて思いもしなかった。
サバンは一応パラワン州の州都プエルト・プリンセサにあるということになってはいるが、実際のところはバスで3時間もかかる。しかも、たまにしか来ないだろうに外国人はフィリピン人の倍のバス代をぼったくられる。そんなにまでしてなぜにサバンに行くかというと、そこに世界遺産のプエルト・プリンセサ地下河川国立公園があるからである。
パラワン島を訪れる日本人観光客は多い。島の北には有名なダイビングリゾート、エルニドがあるのだ。しかも、マニラから直行便が飛んでいる。エルニドまで陸路で行くとなると、プエルト・プリンセサから8時間もかかる。それさえもまだマシで、雨季はずいぶん手前のタイタイまでしか進めず、そこから先はボートで行くしかない。エルニドは州都からよりも首都からの方がはるかに近い。というわけで、観光客はエルニドだけに集中して訪れるので、パラワン島の他の場所にはどこにも誰も外国人は見当たらないのだ。
浜辺のバンカーボート
"道"、サバンでバスを降りると漢字の看板が立っていた。コテージ&レストランとも英語で書かれていた。プエルト・プリンセサの観光案内所で日本人オーナーの宿があるとは聞いていた。こんな僻地に住んでいるのは、仙人のような世捨て人か、変わり者なのだろうか。ぜひ泊まりたかったのだが、その宿はあいにくビーチのはずれと遠かった。荷物の重さにくじけて、バス乗り場から近い宿に泊まってしまった。雨季ということもあり、フィリピンにありがちな湿気てかび臭い宿で、枕の裏にはでっかいムカデが潜んでいた。
道さんは仙人でもなければ変人でもなかった。ヤシの林と砂浜の間の小道をまっすぐ行くと彼の宿はあった。手ぶらで歩けば、なんでもない距離だった。再婚したフィリピン人の奥さんの故郷がここサバンなのだ。幼い男の子と女の子が庭を仲良く走り回っていた。
「いやあ、マラリアで死にかけましたよ」。
村で蚊に刺されないようにと道さんは言った。病院のないこの村にマラリアが蔓延したときは、さすがに街から医者がやってきて、にわか診療所ができたそうだ。
マラリアは日本ではまずかかることのない熱帯性の病気だ。症状には波がある。高熱による寒さで強烈な震えがきた後は、しばらく治まる。それを何度も繰り返す。波が引いている間、道さんが隣の患者のベッドを見ると、付き添いの家族が泣いていた。「死んだんだなあ」と思うまもなく、また震えの波が押し寄せてくる。明日は我が身。ここでは全く他人事ではない。
道さんのコテージは、少々値段は高いが新しくてきれいで設備が整っている。外国人が顔をしかめることなく、快適に泊まれるのはここでは唯一彼の宿だけかもしれない。マレーシアから自家用機でボディガードを引き連れた要人が訪れたこともあるという。彼の宿は村人から妬まれ、看板に汚物をなすられるような嫌がらせをされていた。サバンの人と結婚してサバンに住んでいる彼さえも、外国人料金の高いバス代を払わされているのだ。
「ここで働いて、ここでしか収入がないのに、どうして同じじゃないの」。
美人の奥さんが上手な日本語で悔しそうに言った。集落から離れていることもあって、道さんの子供たちも村の子たちから仲間はずれにされているのかもしれないなと思った。
海は茶色く濁っていた。マングローブの森から流れ込む川が、雨季で水量を増しているせいだ。それでも、素潜りの漁師はイカやラプラプをたくさん獲って沖から戻ってきた。
「雨さえ降らなきゃ、いつもは入れ喰いなんですけどね」
獲れたらイカを刺身にしてあげますよと道さんがしばらく釣り糸を垂らしてみてくれたが、残念ながらその日は当たりがなかった。きれいな海とマングローブの森を見ながら、ビール片手に釣りをしたらどんなに気持ちいいだろう。ここには乾季に来るべきだった。
プエルト・プリンセサ地下河川国立公園
翌日はうって変わってよく晴れた。肝心の世界遺産、地下河川というのは、洞窟の中を流れる川だった。地底川としては世界最長らしいが、観光客が入れるのはせいぜい1.5キロ程度。鍾乳石はそこそこ大きいけれども、洞窟の中を流れる川はさほど珍しくもない。こんなことなら道さんと釣りをすればよかった。今日ならきっとイカが入れ喰いだろう。
サバンを訪れた2年後、ガイドブックを作っていた。衛星回線のつながる時間を見計らって道さんに電話してみた。何度かけても誰も出なかった。送ったメールも戻ってきた。もう"道"はなくなってしまったのだろうか。連絡先が変わっただけならよいのだが。今度はゆっくり釣りをしに行きたかった。道さんも彼の家族もいないのなら、もうサバンに行くことはないだろう。
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