第2回:ワイルド・ワイルド・ウェスト
更新日2001/04/19
WWW──といってもウェブの話ではない。今回は西の金融街の話。
ファイナンシャル・ディストリクト(金融地区)は特殊な場所だ。これほどたくさんのスーツ姿のビジネスマンが闊歩する場所は、シリコンバレーやサンフランシスコの他のエリアにはない。カウンターカルチャーやコスモポリタンな街として知られるサンフランシスコには、アメリカ西海岸最大の金融都市というもう一つの顔がある。
「西のウォールストリート」と呼ばれるサンフランシスコのファイナンシャル・ディストリクトの朝は早い。外国為替や証券関係者の多くがニューヨークのウォールストリートと連携をとって働くために東海岸時間で働いているためだ。その時差は三時間。彼らが通勤で利用するベイブリッジや周辺の道路は毎朝五時くらいにはすでに渋滞が発生し、ビル街ではスターバックスのカップを片手にオフィスへ向かうスーツ姿のビジネスマンがまるで群れをなすように闊歩している。
一九世紀中期のゴールドラッシュ時代に金鉱掘りたちの拠点となったサンフランシスコは、ニ一世紀を迎えたシリコンバレーにとっても重要なマネーセンターとなっている。チャイナタウンとマーケット・ストリートに挟まれたごく狭いエリアに、銀行や証券会社をはじめ、保険会社や会計会社、法律会社などが入ったビルが林立している。
サンフランシスコ金融街にまつわるエピソードを紹介しようとすると、2つの老舗銀行の歴史に触れざるを得ない。イタリアからの移民、アマデオ・ピーター・ジアンニがサンノゼに創設したバンク・オブ・イタリーは移民たちが新天地アメリカに根を下ろすための資金の貸し付けを行なうビジネスから始まり、やがてその名称をバンク・オブ・アメリカとした。
ニ〇世紀に入ってまもなく発生した大震災で壊滅状態に陥ったサンフランシスコの再興に大きく貢献したバンク・オブ・アメリカは、ジアーニの「Be
first in everything.(すべてにおいて一番乗りであれ)」という哲学に導かれながら、その後も精力的な姿勢で次々と大きな商機を手に入れ、第二次世界大戦の特需やネット好景気を経て、いまや世界有数の銀行に成長した。カリフォルニア・ストリート(California
St.)とモンゴメリー・ストリート(Montgomery St.)が交差する場所にある同社の茶色い本社ビルは、「三角ビル」として有名なトランスアメリカ・ピラミッドと並ぶファイナンシャル・ディストリクトの顔である。
もう一つのシスコの老舗銀行はウェルズ・ファーゴ・バンクだ。バンク・オブ・アメリカ本社のはす向かいにあるウェルズ・ファーゴ歴史博物館には、西部劇映画でもお馴染みの駅馬車をはじめとする、当時の様子を綴った資料が展示されている。
ヘンリー・ウェルズとウィリアム・ファーゴを創立者とする彼らの歴史はゴールドラッシュ以前まで遡る。全米の主要都市を結ぶ輸送ビジネスで成長した彼らは、ゴールドラッシュ時代の到来に呼応して、鉱夫たちが必要とする物資を東海岸から輸送し、また彼らが採掘した金を買い上げて東海岸に輸送するビジネスを展開した。
合衆国の国土は気が遠くなるほど広かった。どれくらい広かったかというと東海岸から西海岸まで駅馬車に1日12時間乗りつづけても2週間はゆうにかかった。そして、輸送距離によるタイムラグと金品狙いの強盗による輸送中のリスクを減らす手段として有効と考えられたのが、電信による金融取引だったのである。
彼らはこの事業を通して電報に価値を見い出し、商業電信の全米普及に一役買うことになる。
ひょっとすると他の誰よりも昔に未来の情報ハイウェイの青写真を描いていたのは、このウェルズ・ファーゴ・バンクなのかもしれない。
往来の激しい歩道の隅でほとんど立ったまま昼食を取っていた若いビジネスマン。後ろの左側のビルがバンク・オブ・アメリカ本社。最上階のラウンジは知る人ぞ知る景観スポット。ご近所にある、かの有名な三角ビル(トランスアメリカピラミッド)越しに市街地とサンフランシスコ湾を見渡す眺めは圧巻。
Photo by Yukio Yoshinari/Image Works