■シリコンバレー~ITの夢とドラマの舞台裏を歩いてみる

安蒜 泰樹
(あんびる・ひろき)


雑誌/書籍編集者、ウェブディレクター/プロデューサー、翻訳者。アスキーでソフトウェア製品のマーケティングの仕事をしたあと、出版局へ異動しマルチメディアな編集者として修行。その後、インプレスのインターネット放送専門米国子会社へ転職。シリコンバレーで約3年過ごしたあと帰国。現在、SuiteZero Ltd.取締役社長。


第1回:あの時あの場所で
第2回:ワイルド・ワイルド・ウェスト

第3回:水と芝生の美しい街

第4回:地図にない谷

第5回:産業高速「101」~その1

第6回:産業高速「101」~その2

第7回:麺が恋しい?ベトナムラーメンで決まり

第8回:株情報とネットの馴れ初め

第9回:森林高速「I-280」

第7回:麺が恋しい?ベトナムラーメンで決まり

更新日2001/05/24 


シリコンバレーの日本人なら誰でも知っているシリコンバレーのウィークポイント──美味いラーメン屋が(ほとんど)ない。

シリコンバレーの暮らしが長くなるにつれて、日本を代表する料理が寿司なんぞではなくて、ラーメンだったことをひしひしと感じることになる。言い過ぎか?いやいや現地で暮らしているとこれが結構切実だったりするのだ。

夕暮れどきに「ああ、日本のラーメンが食べたい…」と呟きつつ、日本のラーメン激戦区に思いを馳せる駐在員たちがいったいどれだけいることか。彼らの間で交錯するうまい店クチコミ情報、期待、失望…その繰り返し。そしてこうした輩がやがて辿りつくレシピはベトナムラーメンだったりするのである。言い過ぎか?いやいやそんなことはないぞ。

異文化交わる処に美食育まれるというのは本当の話。ときは一八世紀末、場所はもちろんベトナム。一度は国を追われたアインさんという統治者だった人がフランスの力を借りて権力を奪還、その国土を「越南」としたのが、ベトナム美食文化のそもそものはじまりになるのだと思う。

イギリスに張り合ってアジアの植民地化競争にやっきになっていたフランスは、このお国ならではのグルメ感覚DNAを侵略地にもきっちり植えつけることに成功。イースト・ミーツ・ウェストだ。まるでメコン川のゆったりとした流れが大海に流れ込むかのように、アジアとフランスの食文化は見事に調和した。

こんな風に一九世紀を通じてフランスの影響にさらされたベトナムの食文化をさらに洗練したのは、皮肉なことに一九六〇年代に勃発したベトナム戦争である。米ソ冷戦構造の実戦場となったベトナムの飲食業界は、「世界を股にかけるグルメ人種」と呼ばれる国際ジャーナリストたちを商売相手にすることによって、いよいよその完成度に磨きをかけることになったのだった。

話をラーメンに戻そう。「Pho(フォ)」と呼ばれるベトナムラーメンは、ベトナム北部で誕生したといわれている。今日ではベトナムの町には、この看板やら屋台やらがあちこちに溢れているのである。ベトナムを訪れたことがないので無責任な想像で書いてしまうが、東京でいえばおそらく恵比寿や新宿界隈のラーメン激戦区をイメージすればいいのかな。鶏、豚、牛を長時間コトコトと煮込んだスープで仕上げた独特の味わいは、ここのところ日本で久しく流行しているこってり系ラーメンとは趣を異にしてさらりと上品。

ベトナムにおけるラーメンはライス・ヌードルと呼ばれる米の粉で作られるものだけなのだが、ここにまた戦争が生み出した歴史のいたずらがある。ボートピープルとしてアメリカに移り住んだ中国系ベトナム人たちが、ベトナムラーメンのスープとエッグヌードル(香港麺)の絶妙なコンビネーションを発案して、これが大ブレイクすることになった。

別皿に盛られてやってくるハーブ類はお好みで。素手でぐわしとつかんでモヤシをのせ、サラントの葉を千切っては投げ千切っては投げ、とどめにライムをぎゅうぎゅうと絞って麺の上にしたたらせる。チリソースはとりあえず控えめに。

ベトナムにおけるフォは、どちらかといえば朝食なんだそうだが、シリコンバレーでは昼食の人気メニュー。年間を通じて温暖といわれるシリコンバレーだが、冬場はやっぱり暖かい食を楽しみたいのだ。飾り気のない店に雑多な人種が集まって、ぎこちなく箸を使いながらハフハフとベトナムラーメンに舌鼓を打つという面白い光景。その多くが首から社員証をぶらさげたエンジニア風の人々だったりするわけである。

そんなわけでベイエリアにはベトナムラーメン屋がいっぱいある。え、うまい店? 知りたい人はメールください。お教えしマス。

Photo by Yukio Yoshinari/Image Works

 

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