■シリコンバレー~ITの夢とドラマの舞台裏を歩いてみる

安蒜 泰樹
(あんびる・ひろき)


雑誌/書籍編集者、ウェブディレクター/プロデューサー、翻訳者。アスキーでソフトウェア製品のマーケティングの仕事をしたあと、出版局へ異動しマルチメディアな編集者として修行。その後、インプレスのインターネット放送専門米国子会社へ転職。シリコンバレーで約3年過ごしたあと帰国。現在、SuiteZero Ltd.取締役社長。


第1回:あの時あの場所で
第2回:ワイルド・ワイルド・ウェスト

第3回:水と芝生の美しい街

第4回:地図にない谷

第5回:産業高速「101」~その1

第6回:産業高速「101」~その2

第7回:麺が恋しい?ベトナムラーメンで決まり

第8回:株情報とネットの馴れ初め

第9回:森林高速「I-280」

第8回:株情報とネットの馴れ初め

更新日2001/06/07 


今回はサンフランシスコの金融街が生んだもう一つの伝説。あるユニークな証券会社について書く。個人投資家向けオンライン株式トレーディングのパイオニア、チャールズ・シュワブである。

株のオンライン・トレーディングサービスというと、日本ではEトレードやマネックスなどのほうが知名度は上かもしれないが、米国においてこの会社が老舗中の老舗であることは誰もが知っている。

創設者のチャールズ・シュワブが、その前身となるごく普通の証券会社を設立したのは一九七〇年のこと。顧客への有機的なサービスをギリギリまで簡略化することによって安価な取引手数料を実現する「ディスカウント・ブローカー」と称し、庶民に向けて株式による資産運用を啓蒙しはじめたのは一九七四年のことである。一九七六年には顧客向けに独自開発した銘柄株価の速報システム「Bunker Ramo System 7」を導入し、情報技術を駆使する証券会社としてのブランドイメージが確立された。

株式市況情報とコンピュータシステムの相性の良さを確信したチャールズ・シュワブはその後も顧客向けの市況情報システムの開発に余念がなかった。一九七九年にはメインフレームを使った新システムを開発し、これを待っていたかのように国民の間では投資信託が銀行預金に代わる新たな資産運用方法として注目され、同社のビジネスは追い風を捕まえる形となる。こうしたチャールズ・シュワブの成長ぶりに注目した大手銀行のバンク・オブ・アメリカが同社を買収するという大事件が世間を驚かせたものの、わずか三年後の一九八六年には同銀の戦略にフィットしないという理由から一転して売却となり、チャールズ・シュワブは再び独自経営の道を歩むことになった。これ以降のシュワブのサクセスストーリーは九〇年代中盤以降のオンライントレーディングブームにそのままなぞらえられる。

メインフレーム登場以前に、株式市況をビットに載せ情報提供の低コスト化を図るという当時においては独創的なアイデアを考え出した創設者のチャールズ・シュワブもまたスタンフォード大学のMBA(経営学修士号)を持つ。インターネットと金融情報──早い時期にこれに着目し、他者に先駆けて成功の扉を押し広げた彼もまた、米国ネットビジネス創世記のヒーローの一人に数えられるはずだ。

ここから先はちょっと余談になる。西海岸のカジュアルな風土と東海岸のトラッドな文化──大陸をはさんだ東西のカルチャーに大きな違いがあることは誰もが知っているとおりだが、金融街で働く人々も例外ではない。サンフランシスコの金融マンたちは、一言で表現するならば「ナイス」な人々だ。金融街で働く人々と聞けば、どこか厳然とした態度や風貌を思い浮かべがちだが、リベラルな土地柄がそうさせるのか、サンフランシスコにはそういった重々しさがない。「所要時間十五分」といわれる金融街のランチタイムにも、若い金融マンは公園のベンチでネクタイを邪魔そうにしながら、つかのまの日光浴を楽しんでいる。

東海岸の銀行との付き合いや駆け引きで場数を積んだある企業家が、サンフランシスコの金融機関とやりとりする機会があった。金融マンのフレンドリーな物腰や会話のテンポに、その企業家は最初こそ面くらいながらも、最後には好感を抱いてしまい、新規事業の拠点を当初の予定だった東海岸からシリコンバレーへ移してしまった…。語り方は少々オーバーかもしれないが、日本からシリコンバレーを訪れた人物の話である。もう少し正確にいうと、彼が心底感動したシスコの金融マンのスタイルは、カジュアルで小気味よいシリコンバレーのビジネススタイルそのままだったりするのである。シュワブのビジネスの柔軟性や機動性には、やはりこうした風土が少なからず影響しているような気がしてならない。

Photo by Yukio Yoshinari/Image Works

 

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