第33回:西部開拓時代の虚像と実状 その1
私がいつの頃からかアメリカ西部と言うべきか、ハリウッド西部劇にあてられ、のめり込むことになった。西部劇が好きだった親父に連れられて二本立て映画の二番館で、小学校の時から西部劇を観ていたせいだとは思うが、父親が死んでからも小銭を握りしめて西部劇通いをしていたから、アメリカの大西部に対する思い入れは相当なものだったのだろう。
当時はもちろん、自分が西部劇のヒーローたちの足跡が数多く残るロッキーの山裾に住み、ピックアップトラックを転がして、様々な舞台を訪れるとは想像もしていなかった。
西部劇は一種、大人の、言い切ってしまえば男の憧れ、郷愁があるように思う。成人した男の童話なのだ。だから、現実といかに離れていようが、汗臭いカウボーイ、黒ずくめに身を固めたギャンブラー、そして鮮やかな拳銃さばきがあればそれだけで成り立つ物語がそこにあるのだ。
ほとんどの辺境の町では、拳銃の持ち込み、腰にガンベルトを巻いて歩くことは禁止されていた。ガンファイトでその名を知られいるダッジシティーやトゥームストーンでも、拳銃、ライフルの携帯は禁止されていた。カウボーイたちも牛を追っている時はもちろん、サドルバックにライフル、そして腰にリボルバーを下げていたが、町に着くとその町のシェリフの事務所、警察署に銃を預けなければならなかった。
だから、女性の侍るサロンバーに拳銃を腰にして入り、ウイスキーをカッと飲むことなどできなかった。サロンバーの中で内装をブチ壊すような立ち回りも、まずなかった。
もし西部の無法者らが現在の都会の下町での銃の蔓延を見たら、冗談じゃないと腰を抜かすことだろう。こんな危ない町、通りを歩けるかと思うことだろう。
それに拳銃、ライフルは高価だったから、辺境で人口の80%を占めていた農夫、鉱夫たちはせいぜい散弾銃くらいしか家に置いていなかった。鉄の塊のようなリボルバー拳銃、それに数十発の銃弾差し込んであるガンベルトはかなりの重量がある。
イタズラにガンベルトとリバルバーを腰に締めたことがある。こんな重いものを腰に巻いて彼らはどうして動き回れたのだろうと呆れ、感心したことだ。
コルト45、シングルアクション、アーミーモデル
多分に骨董的価値が出てきているので、お値段は1,800ドルにもなる
銘銃とされている銃身の長いモデル
西部劇に登場するリボルバーは、コルト45が主流だった。これはダブルアクションという、1発1発撃鉄を親指で起こし、かつ弾倉を回さなければならなかった。すぐにシングルアクション、撃鉄を起こすと同時に弾倉が回るものも出回った。銃弾は5発か6発しか丸い弾倉に入らなかった。
現在、下町のギャング、お巡りさんも大半は引き金を引くだけで弾丸が飛び出す9mm拳銃を持ち歩いている。弾丸も12発、多いものだと20発も入る弾倉をグリップに持っている。
もう一つ、西部の男が被るテンガロンハット、銘品のブランドはステットソン(Stetson)というメイカーで、これがまた異常に高い。元々はビーバーの毛を集めて作ったものだが、雨、風に強く形が崩れないのが売りだ。
OK牧場の決闘の舞台になった町、トゥームストーンを訪れた時、土産物屋に迷い込み、きっと日本人のカモが来たとでも思った店員が私の頭にヒョイとステットソンのカウボーイハットを載せてくれたことがある。
鏡に写った自分はどうみても西部劇に登場できる顔ではなく、よくてメキシコの農夫の頭にメキシカンハット、ソンブレロの代わりにガンマンがイタズラに自分の帽子を載せてくれたようないで立ちだった。そして値段を見て驚いた、200~300ドルもするのだ。
Stetson Presidentモデル(1,299ドル)
Stetsonはブランド中のブランド、西部テンガロンハットのルイビトンだった
ミズーリー州、セントジョゼフが発信地だ
テキサスからロングホーン牛を追っていた勇猛でタフの極みのようなカウボーイたちは、テンガロンハットなんかかぶっていなかったと後で知った。いくらブランドものだとはいえ、ツバが広いカウボーイハットは馬を走らせながら被るのに全く適していない。すぐに吹き飛んでしまうからだ。騎兵隊が被る帽子も鍔の狭い、顎紐の付いた小さいもので機能的ではあるが、あまり格好の良いものではない。
私が西部、西部劇を言った方が当たっているかな、取りつかれるきっかけになったブッチ・キャサディとサンダンス・キッドら5人組が、ダラス、テキサスで撮った有名な写真でも、被っている帽子はメーカーこそスタットソンだが、低めの山高帽で、西部の荒野を駆け巡る汗臭く、逞しいアウトーロー風ではなく、まるで地方の小さな銀行に勤めている職員のようだ。
ワイルドバンチの集合写真「フォートワース・ファイブ」
前列左からサンダンス・キッズ、ベン・キルパトリック、ブッチ・キャサディ、
後列左からウィリアム・カーヴァー、キッド・カーリー (Fort Worth, Texas;1900)
そして、彼ら、西部の男どもが入り浸っていたような印象を与えるサロンバーでのポーカーである。元々サロンバーに出入りする人種は限られていた。確かにワイルド・ビル・ヒコック、サンダンス・キッズ、ワイアット・アープらはポーカーに凝っていたが、99%以上の西部人はサロンバーでポーカーなどしたことがなかったと思う。
ポーカーは未だにアメリカで一番盛んなカードゲームだろう。大変な金額を賭けて全米選手権なるものまでラスベガスで行われている。アメリカの若者は兵役に就いている間、余暇としポーカーを覚える程度で、私の連れ合いの叔父、従兄弟でポーカーに興じる者はいない。ましてや、西部開拓時代、賭けるだけの現金を持っている人は極めて少なかったし、そのお金をカードゲームに使おうとする人物はさらに少なかった。
-…つづく
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