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■西部開拓時代の伝承物語~黄金伝説を追いかけて

 

第3回:ドン・アントニオ・ホセ・チャベスの財宝 その2

更新日2024/05/02

 

4月になり、クリーク沿いの越冬キャンプにも春が来て、雪も溶け始めた。しかし、他の幌馬車隊は一向に姿を見せなかった。この季節外れの猛吹雪の情報をインデペンデンスでは掴んでいたのだろうか、いずれの幌馬車隊も出発を控えていたのだ。

雪が溶けたとはいえ、トレイルは泥道に変わり、チャヴェス一行は2台の幌馬車を動かすに足る機動力、ミュールを失くしていた。生き残った5頭だけでは動きが取れなかった。チャヴェス一行は引き続きキャンプしながら他の幌馬車隊が通るのを待った。他の幌馬車隊にしろ、チャヴェスに売るほど余分なミュールや馬、あるいは牛を持っているとは思えないのだが、それより他に取る道がなかったというのが本音だろうか。そして、チャヴェスは通りすがりの幌馬車隊からミュール、馬などを買うだけのお金を持っていたことにもなる。

だが、そこに現れたのが、チャヴェスにとって最悪、悪夢のような一隊だった。メキシコ側の記録では、ミズーリーのならず者、ヤクザ集団とあり、アメリカ側に言わせれば、テキサス独立戦線に参加するための応募義勇兵だということになるのだが、ジョン・マックダニエルに卒いられた武装した15名の騎兵隊だった。
 
ここでテキサスとメキシコについて触れないわけにいかない。

メキシコがスペインから独立宣言をしたのは1811年のことで、戦いが終結し独立が認められたのは11年後の1821年になってからのことだ。その間、広大な領土も多くの住民も疲弊した。スペインは南米、中米、カリブ、フィリピンへと世界中に広げすぎた植民地を統制しきれず、投げ出すように独立を許していった時期だった。

1833年にアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナがメキシコの大統領に選ばれ、一つの国として動き始めたが、それはメキシコシティーを中心とした地域に限られており、まだ未開の地とみなされていた北部、今のニューメキシコ、アリゾナ、テキサス、カリフォルニアまで統制が及んでいなかった。
 
ここコロラドでさえ、その当時から住んでいたスペイン人を先祖に持つ住人が数多くいる。彼ら自身もスペイン人だと自認しているし、容貌もまるでラテン系で、ブルネット、濃い茶色か真っ黒の髪、艶やかなオリーヴ色の肌、漆黒の瞳と、メキシコインディオの面相とかけ離れている。絵に描いたようなスペイン、ラテン系の美人に出くわしたこともある。彼らはメキシコ語でなく古臭いスペイン語で育っている。原住インディアンと彼らこそ生粋のアメリカ西部人と言えなくもない。
 
国境など、合衆国では東部ワシントンの政治家、メキシコにあってはメキシコシティーに居座る軍属、豪族どもが地図の上に引いた線に過ぎなかった。とは言え、アングロサクソンのアメリカ人、合衆国政府の領土意識は強く、今考えると一種の賭けのような『ルイジアナ』を1803年にフランスから購入している。

フランスは対イギリス意識が強く、アメリカの独立を強く推していた事情があったにしろ、このルイジアナ購入は、現在の目で見れば、超大バーゲンの良い買い物ではあったが、とてつもない英断だった。

ルイジアナ購入とは呼んではいるが、それはミシシッピー添いに遡り、ルイジアナ、アーカンソー、カンサス、ミズーリー、ネブラスカ、イリノイ、アイオワからロッキーを越えモンタナ、ワイオミングに及び、カナダに至る広大な地域で、独立当時の合衆国のアメリカ東部の領土に匹敵するほどだ。
 
その時、テキサスはメキシコ領土とみなされていたから、ルイジアナ購入に含まれていない。テキサスは人口希薄な乾燥地帯で、メキシコ領とはいえ、北米人が多く入植し、牧畜を営んでいるだけだったのが、次第に北米人がメキシコ系を圧倒し始め、メキシコの軍閥の支配は受けないとばかり、かといって合衆国サイドにも付かず、独立したテキサス共和国を名乗り始めた。それが1835年の10月2日のことで、テキサス共和国独立戦争が“アラモ砦の戦い”の全滅につながり、そして、「パールハーバーを忘れるな!」と全く同じように「アラモを忘れるな!」のキャッチフレーズが全米に広がり、テキサスをアメリカ領土にすることになる。

アラモに閉じこもった200人内外の兵士、義侠心、闘争心こそ煮えたぎっていたが軍とも呼べない集団で、命令系統すら明確でなかった。しかし、デイビー・クロケット、ボウイーナイフで有名なジェイムス・ボウイー、グリーン・B・ジェイムソン(土木技師だった)らが伝説を作り上げていった。

一応の統率者は26歳のウイリアム・B・トラヴァースと言えなくもないが、誰がどのように観ても勝ちようのない戦いだった。何度もトラヴァースは合衆国政府に援軍と銃弾を要請しているが、合衆国政府、時の大統領アンドリュー・ジャクソンはあえて無視した。闘争はメキシコ共和国内のテキサス独立共和国の間でのことだと判断したのだろうか。どうしてテキサスを独立させるために合衆国が軍隊を送る必要があるのだとでも思ったのだろうか、いずれにせよアンドリュー・ジャクソン大統領はアラモを見殺しにした。
 
当時、メキシコ領だったテキサスに移住していた北米人、白人は3万8,470人で、ほかに5,000人の黒人奴隷がいた。

だが、アラモが悲壮な全滅を遂げたことが起爆剤になり、アメリカ合衆国は長い散発的な戦いを経て、メキシコを破り、テキサスは独立を諦め、合衆国側に編入されることになる。

Alamo_1854
アラモ砦<この絵は1854年に描かれたもの>
砦というより元修道院だったところにテキサス共和国義勇軍は閉じ籠もった。
それが1836年2月23日のことで、3月6日に182人から260人と
未だに確定できていないテキサス人が全滅した。
今はサンアントニオの観光名所になっている。

チャヴェスが遭遇したミズーリーからの義勇募兵隊はテキサスに駆けつける集団だった。一応ジョン・マックダニエルという統率者はいたが、手下どもは兵士としての訓練もなく、西部で一旗挙げようという食い詰め者集団だったと思われる。ジョン・マックダニエル自身、軍人として経験は多少あったが、山師的性格を多分に持っていたようだ。彼は15名の義勇募兵を引き連れてテキサス軍のワーフィールド大佐の元に行くつもりだった。

サンタフェ・トレイルは合衆国、メキシコ両者にとって重要な主要幹線通路だったし、交通量も多かったはずだ。ただ、戦争が始まってからメキシコ人にとって、サンタフェ・トレイルを通り交易するのは危険率の高い賭けになった。それまでは、コマンチ族の襲撃だけを配慮し、斥候を立てれば済んだところ、アメリカのならず者がメキシコ人のキャラバンと見ると見境なく襲撃するようになっていたからだ。だが、それだけにウマミの多い交易だったに違いない。

Alamo-2
The chapel of the Alamo Mission、San Antonio

-…つづく
 


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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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