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第457回:流行り歌に寄せて No.257 「愛のくらし」~昭和46年(1971年)5月21日リリース

更新日2023/05/11


作曲のアルフレッド・ハウゼ(Alfred Hause;1920年8月8日-2005年1月14日)は、ドイツのヴェストファーレン地域出身のコンチネンタル・タンゴの指揮者、ヴァイオリニストであり作曲家である。

彼は、1948年にTanzorcheter(ダンス音楽)のバンド、アルフレッド・ハウぜ楽団を結成し、軽音楽全般を演奏していた。ところが、1952年に契約したドイツ・ポリドールから、日本ポリドールとともに、タンゴ演奏を強く要請され、主にコンチネンタル・タンゴを演奏する楽団となった。

これには、第二次世界大戦前に人気を博していたジャーマン・タンゴの音楽家の活動が戦後途絶えてしまい、それに替わるタンゴ演奏家の登場が望まれていたという背景がある。

そして、アルフレッド・ハウゼ楽団は、日本にも多くのファンを持ち、当時は同じくコンチネンタル・タンゴのマランド楽団と人気を二分することとなり、1965年には初来日を果たしている。ちなみに「コンチネンタル・タンゴ」というのは、この来日時に記念盤として出されLPレコードのジャケットに初めて表記された和製英語であるという。

この初来日の最中、楽団の楽器類を積んだ、全日空のダグラスDC-3貨物専用機が墜落事故を起こして、楽器を逸失し、NHK交響楽団から楽器を借りて東京公演を行なったというエピソードも残しているが、日本ポリドールが全面的にフォローしたアルフレッド・ハウゼ楽団は、それから1989年まで、24年間の長期に亘り日本公演を行なっている(楽団自体は、アルフレッド・ハウゼの死後も指揮者を変えて活動し、その後も日本公演を続けている)。

当時、加藤登紀子は石井好子事務所に在籍していた。その石井事務所がアルフレッド・ハウゼ楽団の招聘を行なっており、加藤も日本ポリドール所属の歌手ということもあって、昭和46年(1971年)の楽団の来日時に、石井好子の意向で、楽団の演奏によって加藤が歌唱するための曲の作曲をハウゼに依頼した。そして、アルフレッド・ハウゼが曲を書き、それに加藤登紀子が詞をつけたのが『愛のくらし』と『悲しみの島』の2曲だった。

(この2曲の作者にTommy Childrenという名前が出てくる資料もあるが、海外には作詞権の譲渡というものがあるらしく、ハウゼがこの人物に、加藤が作詞する前からすでにそれを与えていたからそういう形になっており、実際には日本語歌詞がオリジナルである)

この2曲は、当初はレコード化の予定はなかったが、ハウゼ側から、楽団による伴奏で後は歌唱を入れるだけというの音源が送られてきたため、『愛のくらし』をA面、『悲しみの島』をB面として、日本ポリドールから発売された。

送られてきた演奏の美しさに心を奪われた加藤だったが、音のキーも、その音源に合わせなければならず、高音部は彼女にしては珍しく、裏声を使って歌うこととなった。


「愛のくらし」  加藤登紀子:作詞  アルフレッド・ハウぜ・作曲  馬飼野俊一:編曲  加藤登紀子:歌


この両手に 花をかかえて

あの日あなたの 部屋をたずねた

窓をあけた ひざしの中で

あなたは 笑って迎えた

 

手をつなぎ ほほよせて

くり返す 愛のくらし

花は枯れて 冬が来ても

すてきな日々は つづいていた

愛をかたる 言葉よりも

吹きすぎる 風の中で

求めあう ぬくもりが

愛の かわらぬ しるし

 

人はいくども 愛に出会い

終わりのない 愛を信じた

ある日気がつく 愛の終わりに

人は いくども泣いた

 

手をつなぎ ほほよせて

くり返す 愛のくらし

花は咲いて 春は来ても

すてきな日々は 戻って来ない

愛をかたる 言葉よりも

風にこごえた この両手に

あなたの身体の ぬくもりが

今も 消えずに 残る

 

1番と2番の詞は、表と裏のように相反している。私は、もう35年ほど前、友人夫妻の結婚式の二次会で、この曲の1番だけを歌ったことがある。もちろん2番の詞は知ってはいたが、1番だけを歌えば二人の愛への祝福になると考えていた。

私は、音楽というものを全く理解していなかったのだと思う。もうすでに充分有名であったこの曲を新郎新婦が知らないはずもない。何か、それに続く予感のようなものを残して1番で歌い終わったと思われることなど考えてはいなかった。

幸い、その二人は実に仲睦まじく暮らし、お孫さんも何人かでき、楽しく生活されているようである。ことなきを得た感はあるが、今でも朗々と1番だけ歌い終わって席に戻った当時の自分のことを思い出すと、冷や汗が出てくる。

さて、今回この曲はもう2、3年後になって歌われたものだと私は思っていたが、その理由がわかった。

レコード発売の当時は、まだ『知床旅情』がロングヒットを続けていた最中で、この曲の話題が高まらなかったこと。また、加藤登紀子も結婚、出産の時期にあたり、この曲をコンサート会場で歌わなかったこと。これらの原因が重なり、あまり世に知らされなかったのだという。

ところが、札幌にあるレコード店が、この曲の良さを広めようと店内に流し続け、それにより、北海道のローカルのラジオ局の音楽番組にランキング入りし、じわじわと全国的にヒットしていったのである。だから、私の記憶には昭和49年以降に最初に耳にしたというふうに残っていたのだ。

大きなレコード会社が大々的にキャンペーンを張ることだけが、流行り歌を作るのではないということに、改めて気付かされるエピソードである。

-…つづく

 


第458回:流行り歌に寄せて NO.258 「なのにあなたは京都へゆくの」~昭和46年(1971年)9月55日リリース


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金井 和宏
(かない・かずひろ)
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1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
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