第451回:流行り歌に寄せて No.251 「また逢う日まで」~昭和46年(1971年)3月5日リリース
歌謡界の歴史に、最大級のフォント・サイズでその名を刻む、阿久悠と筒美京平。
昭和46年(1971年)二人が初めてコンビを組み、いきなりその年の第13回日本レコード大賞と、第2回日本歌謡大賞をダブル受賞し、歌った尾崎紀世彦が同年の第41回NHK紅白歌合戦に初出場、白組のトップバッターとして披露したのが、今回の『また逢う日まで』である。オリコンの週間シングルチャートで、9週連続1位、集計で約100万枚近いセールスと、記録的な大ヒット曲となった。
さすが、後の大作詞家、大作曲家が手がければ、最初からこんな大ヒット曲になってしまうのだと唸ってしまうところだが、実はこの曲ができるまでには、かなりの紆余曲折があったようである。
もともとは、昭和44年(1969年)、三洋電機のエアコンのCMソングの依頼を受け、筒美京平が3曲を書き下ろした。そのうちの1曲(該当曲)に、あの『アンパンマン』の作者である漫画家、詩人のやなせたかしが詞を載せた。それを歌ったのが『若いってすばらしい』『片想い』などの曲で知られる女性ポップスシンガー槇みちるだった。ところが、この曲は三洋側の意向で採用されず、日の目を見ることはなかったのである。
筒美の楽曲の管理会社である日本音楽出版株式会社(日音)の村上司プロデューサー(後の日音社長、会長)は、この曲が表に出ないことを惜しみ、当時『白い珊瑚礁』でヒットを飛ばしていたズー・ニー・ブーの曲として採用したいと考え、『白い珊瑚礁』の作詞者である阿久悠に作詞を依頼する。
阿久は、当時、学生運動の中で、ドロップアウトしていた若者の心情を反映させ、『ひとりの悲しみ』という名のタイトルの詞を、この曲に載せたのである。そしてでき上がった曲は、後の『また逢う日まで』とアレンジがほぼ同じだった。今回聴くことができたが、ヴォーカルの町田義人の声量のある歌声も魅力的で、素敵な曲になっている。しかし、ヒットには至らなかった。後出しジャンケンのような言い方で恐縮だが、やはり詞が弱いような気がする。
ところが、村上はまだ諦めない。どうしてもこのメロディーを世に広めたく、尾崎紀世彦に『ひとりの悲しみ』をテスト録音させたりしながら、阿久に、もう一度詞を書き直してくれるよう説得する。最初は書き直しを渋っていた阿久も、再三の依頼に遂に承諾をし、二人の別れをテーマとして『また逢う日まで』というタイトルの詞を提供したのである。
「また逢う日まで」 阿久悠:作詞 筒美京平:作・編曲 尾崎紀世彦:歌
また逢う日まで 逢える時まで
別れのそのわけは 話したくない
なぜか さみしいだけ
なぜか むなしいだけ
たがいに傷つき すべてをなくすから
ふたりでドアをしめて
ふたりで名前消して
その時心は何かを 話すだろう
また逢う日まで 逢える時まで
あなたは何処にいて 何をしてるの
それは 知りたくない
それは ききたくない
たがいに気づかい 昨日にもどるから
*ふたりでドアをしめて
ふたりで名前消して
その時心は何かを 話すだろう*
(*くりかえし)
尾崎紀世彦は、昭和18年(1943年)の元旦に、東京都渋谷区に生まれた。父と兄はクラシックバレエのダンサー・演出家、母は日劇ダンシングチームの一期生という、芸術、芸能系の家族の一員だった。また、父方の祖父はイングランド人である。
子どもの頃から洋楽に親しみ、中学生の時、友人とハワイアンバンドを結成、ヒロ・ハワイアンズのメンバーとして17歳でセミプロのデビューを果たした。その後、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズに入り、カントリー&ウエスタンのヴォーカルとなる。
昭和42年にはグループサウンズでもあるコーラスグループ、ザ・ワンダースを栗敏夫、朝紘一とともに結成して、テレビのポップス番組にも出演していた。このグループは筒美京平作曲の曲も歌っていた。
そして、前出の日音の村上司の強い勧めがあってソロとなり、昭和45年8月『別れの夜明け』(山上路夫:作詞 筒美京平:作・編曲)でレコードデビューを果たした。デビューの際、ザ・ワンダースのリーダーであった栗敏夫が歌手を引退し、本名の小栗俊雄として日音に所属、尾崎のディレクターになっている。
見事にソロデビューを果たした尾崎だったが、デビューの翌月の9月、タクシーに乗車中に自動車事故に逢い、約4ヵ月の入院で営業活動ができず、その歌唱は評判にはなったもののヒットには結び付かなかった。
だから、先述の『ひとりの悲しみ』のテスト録音は、退院後間もなくのことだったに違いない。そして、その後時を置かずに、歌詞が変更された曲を歌ったところ、爆発的なヒットになった。もちろん、その歌唱力に裏付けされているとは言え、この人は大変な運を持つ人のようだ。
蛇足だが、当時高校1年生になったばかりの私は、前々回ご紹介したあおい輝彦の『二人の世界』が大好きだったため、ロイ・ジェームスの『不二家歌謡ベストテン』で1位を獲って欲しかった。ところが、2位までは行くものの、常にそのトップの座を『また逢う日まで』に阻まれていたため、当時の私はこの曲をあまり好きにはなれなかったのである。
第452回:流行り歌に寄せて No.252 「わたしの城下町」~昭和46年(1971年)4月25日リリース
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