第458回:流行り歌に寄せて No.258 「なのにあなたは京都へゆくの」~昭和46年(1971年)9月5日リリース
チェリッシュというグループが出てきた頃、確かテレビの歌番組で、その意味をメンバーの誰かがこんなふうに答えたことを、うっすらと覚えている。
「チェリッシュとはcherish、愛おしむ、大切にするという意味で、likeとloveの、ちょうど中間のような意味なんですよ」。高校1年生だった私は、なるほど、そんな素敵な言葉があるのだなと感心したものである。今で言えば「友だち以上、恋人未満」ということになるのか。
エッちゃんこと、松崎(旧姓・松井)悦子は、当時私が住んでいた愛知県春日井市のご出身である。私の通った高校も、そのまま愛知県立春日井高校だったから、高校内にも女子生徒を中心にエッちゃんのファンは多かった。地元出身のスターだったのである。
チェリッシュは、もともと男性4人組グループ。グループ名は、アメリカのソフトロック・グループ、アソシエイションが、1966年、ビルボードのヒットチャートで1位になった曲 “CHERISH”からとっている。
メンバーは、リーダーの松崎好孝、奥山敬造(ギター)、藤田哲朗(ベース)、桑原宏司(ドラムス)である。彼らが、あるテレビの情報番組に出場した際、その番組のカバーガールを務めていたエッちゃんと出会った。そして、彼女を女性ヴォーカルに迎えることになる。
この5人グループで、ニッポン放送のラジオ音楽番組『バイタリス・フォーク・ビレッジ』が開催した『バイタリス・フォーク・ビレッジ 全国フォーク音楽祭第1回全国大会』に中部地区代表として参加し、松崎好孝の作詞・作曲による『恋人と』を歌い、グランプリを受賞した。
このことにより、ビクターレコードの深井静史にスカウトされる。そして、グループのコンサートのライブテープの中から、深井はデビュー曲として『なのにあなたは京都へゆくの』を選んだ。この選曲について、リーダーの松崎は難色を示したし、会社の編成会議でも受け入れられない状況にあったが、深井の根気強い説得で、発売に漕ぎ着けたのである。
初回のプレス枚数は、わずか1,500枚で、販売促進のためのポスターやチラシも作らないという状態だったので、当初の売れ行きはよくなかったが、翌年の昭和47年(1972年)に入ってからじわじわと売れ始め、ロングヒットを記録し、累計で35万枚という数字を作った。
「なのにあなたは京都へゆくの」 脇田なおみ:作詞 藤田哲朗作曲 馬飼野俊一:編曲 チェリッシュ:歌
私の髪に 口づけをして
「かわいいやつ」と 私に言った
なのにあなたは 京都へ行くの
京都の町は それほどいいの
この私の愛よりも
静かによりそい やさしく見つめ
「愛する人」と 私を呼んだ
なのにあなたは 京都へいくの
京都の町は それほどいいの
この私の愛よりも
燃える腕で だきしめて
「永遠の愛」を 私に誓った
なのにあなたは 京都へいくの
京都の町は それほどいいの
この私の愛よりも
この私の愛よりも
作曲の藤田哲朗はグループのメンバーだが、作詞の脇田なおみは、当時、名古屋の短大に通学する女子学生だった。このシングルレコードのB面の曲『今ならあなたと』もメンバーである奥山敬造の作詞・作曲(編曲は馬飼野俊一)である。友だち同士で作った作品を持ち寄り、演奏しようというアマチュアバンド的な雰囲気が伝わってくる気がする。
ところが、2枚目のシングル『だからわたしは北国へ』になると、作詞が林春生、作・編曲が筒美京平が担当し、プロによる俄然「売れる」音楽を作る方向に移っていく。
方向性の違いということなのだろうか、オリジナルメンバーである、奥山、藤田、桑原が脱退し、一時期、丹羽裕司(ギター)、花木徹(ベース)、森哲三(ドラムス)のメンバーが加入するが、それもすぐに抜けて、次のシングル『ひまわりの小径』からは、松崎好孝、松井(当時)悦子のデュオとなったのである。
当時、月刊明星の付録だった「ヤングソング」の中にあった、初代チェリッシュの写真を覚えている。まだこのグループのことをまったくと言っていいほど知らなかった私は、「一人の女性の周りに、やたらと髪の長い男性がたくさんいるな」という印象だった。
それが、何号かあとの「ヤングソング」では、松崎とエッちゃんだけで、何かメルヘンチックな佇まいで写っていた。
エッちゃんは、4年前の令和元年8月、胃がんのために胃の全摘手術を行なったが、その4ヵ月後の12月には音楽活動を再開している。デビューから半世紀余り経過し、これからも「地元出身の」デュオとして元気に活躍していることを、心から願っている。
-…つづく
第459回:流行り歌に寄せて No.259 「雨の御堂筋」~昭和46年(1971年)9月5日リリース
|