第450回:流行り歌に寄せて No.250 「戦争を知らない子供たち」~昭和46年(1971年)2月5日リリース
この歌の詞を書いた北山修、昭和21年(1946年)6月19日生まれ。太平洋戦争が終わってから、10ヵ月4日後に生まれた。
因みに、曲を書いた杉田二郎は、昭和21年11月2日生まれ、北山修の盟友である加藤和彦は、昭和22年3月21日生まれ、3人はまさに、最初の「戦争を知らない子供たち」の学年の同級生である。
北山修が、この歌の詞を書き終わって持って行った先が、加藤和彦のところだった。ところが、趣向が合わなかったのか、加藤には作曲を断られてしまう。そこで、次に杉田二郎のところへ持っていくと、彼は詞の内容を素直に受け入れて感動し、曲をつけてくれたという。
確かに、私が考えても、今までの北山の詞とはテイストの違う、あまりにもストレートな表現のような気がする。これには加藤も面食らったのだろうし、北山自身も何か割り切れないものを引きずっていたようだが、杉田の一本気な性格で、曲をつけ胸を張って歌う姿勢に、北山も励まされたようだ。
また逆に、当時ひとつの反戦ソングとして多くの人たちに愛唱され、今でも歌い継がれているのは、そのシンプルでストレートな歌詞内容だったから、ということも言えるのではないか。
この曲が、初めて披露されたのは昭和45年(1970年)8月23日、大阪万博で行なわれたコンサートでのことだった。
その曲の冒頭で「願わくば、100年後、200年後、僕たちの子供たちが、そしてまたその子供たちが『戦争を知らない子供たち』という同じタイトルの下で、世界中のみんなで音楽会を持つことができれば、すごい幸せなことだと思います」と北山修がコメントをしてから、「全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ」により歌われたのである。
この模様は、ライブアルバム『戦争を知らない子供たち』として発売され、前出のグループは、大阪万博閉幕後の昭和45年11月5日に、同タイトル曲をシングル・カットしている。ジローズよりも3ヵ月前のリリースであった。
「戦争を知らない子供たち」 北山修:作詞 杉田二郎:作曲 馬飼野俊一・編曲 ジローズ:歌
戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
おとなに なって 歩き始める
平和の 歌を 口ずさみながら
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
若すぎるからと 許されないなら
髪の毛が長いと 許されないなら
今の 私に 残っているのは
涙を こらえて 歌うことだけさ
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも 一緒に 歩いてゆこうよ
きれいな 夕陽が かがやく小道を
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
戦争を知らない子供たちさ
この曲を歌っているジローズ、実は正確には「第2次ジローズ」である。「初代ジローズ」は、昭和42年(1967年)、アマチュアバンドとして結成された。メンバーは杉田二郎(ギター)、塩見大治郎(ギター)、細原徹次郎(ベース)の3人で、杉田は立命館、塩見と細原は同志社の大学生だった。よくも、3人、それもそれぞれ違う漢字を使ったジローが集まったものだと感心してしまう。
結成の翌年の昭和43年に『あなただけに』(杉田二郎:作詞・作曲、ジローズ:編曲)が、MBSラジオ『歌え!MBSヤングタウン』で取り上げられ話題になり、同8月1日にEXPRESS(東芝音楽工業)から発売された。
レコードジャケットにも明記されている通り、当時流行し始めていたカレッジポップスであり、杉田を中心としたフレッシュなハーモニーの曲であった。このグループは、彼らの大学卒業と同時に解散する。
細原徹次郎のその後の消息は、今回調べられなかった。音楽を離れて、別のジャンルで活躍されたのかも知れない。
塩見大治郎は、その後ソロ活動を経て、昭和44年に結成されたNHKの「ヤング101」の第1期生として、NHKの音楽番組『ステージ101』に昭和45年1月10日の初回から昭和49年3月31日放送の最終回まで出演し、その後はソロに戻っている。
初代ジローズ解散後の杉田は、はしだのりひこ、越智友嗣、井上博とともに「はしだのりひことシューベルツ」を結成し、昭和44年1月発売の『風』が大ヒットした。(この年の『第11回レコード大賞新人賞』を獲得)
しかし、その後メンバーの井上博の急逝などもあり、シューベルツは昭和45年の6月には解散してしまった。
そして、杉田はその年に、第2次ジローズを結成する。メンバーは、今回は二人で、もう一人が森下次郎。さらに別のジローさんを、よく連れてきたものだと思ったが、彼の本名は森下悦伸(よしのぶ)で、半ば強引に次郎にさせられてしまったとのこと。杉田という人は押しが強いというか、今であればパワーハラスメントと言われても何も言えまい。
新生ジローズは、前述の通り、昭和46年2月5日に『戦争を知らない子供たち』を東芝音楽工業から発売した。これがオリコン最高11位、累計30万枚以上をセールスするヒットとなり、ジローズはこの年の『第13回レコード大賞新人賞』を、北山修は『同作詞賞』を受賞するに至った。
杉田は、同志社の学生である森下に、半年間だけの活動だということでメンバーになってくれるよう説き伏せたようだが、実際は森下の卒業までの1年半、グループは続いた。森下は、卒業後は芸能界から離れ、ラジオ関西に就職、後に取締役に就任している。
平成25年(2013年)、森下の退職後、杉田の呼びかけで、ジローズは41年ぶりに再結成し、同年8月1日(初代ジローズの最初のレコード発売から45年の日)、神戸市でライブを行なった。再結成後のの森下は本名の悦伸で活動をした。
さて、前述の大阪万博での北山修のコメントは、当時のベトナム戦争を意識してのものだった。「100年後…」の件があるが、その半分の50年以上経った今でも、世界は戦火からまだ解き放たれていない。世界のみんなで『戦争を知らない子供たち』というタイトルの音楽会を開くことができるまでに、一体どれだけの命が犠牲にならなければならないのか。そして、それは決して他人事ではない話なのだと思う。
第451回:流行り歌に寄せて No.251 「また逢う日まで」~昭和46年(1971年)3月5日リリース
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