■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!
第55回:疾走する15歳
第56回:夏休み観察の記
第57回:菅平の風
第58回:嗚呼、巨人軍
第59回:年齢のこと
第60回:「ふりかけ」の時代
第61回:「僕のあだ名を知ってるかい?」の頃
第62回:霜月の記
第63回:いつも讃美歌があった
第64回:師かならずしも走らず
第65回:炬燵で、あったか
第66回:50歳になってしまった
第67回:もう一人のジャンプ選手と同級生の女の子のこと
第68回:さて、何を食べようか
~お昼ご飯のこと

第69回:さて、何を飲もうか
第70回:軍服とカーディガン
第71回:お疲れさまテレビくん
第72回:上手いCM、旨い酒
第73回:CM話をもう少し引っぱって
第74回:泡も煙も消えてしまうものだけれど
第75回:雨が降ります、雨が降る
第76回:来年はワールド・カップ、そのために…


■更新予定日:隔週木曜日

第77回:The Little Giant~宿沢さんの早過ぎる死を悼む

更新日2006/06/29

昭和48年(1973年)1月6日、ラグビー大学選手権決勝、早稲田大学対明治大学の試合、12-9で早稲田がリードし、後半残りわずか。早稲田陣深く、タックルを受けた明治1年生の松尾雄治が放ったパスを受けた左ウイングの渡辺貫一郎は、早稲田のタックルを振り払いゴールに飛び込んだ。13-12と明治が逆転した直後、ノーサイドの笛が鳴る。この瞬間、早稲田大学の公式試合連勝記録は35でストップした。早稲田の主将は宿沢広朗選手だった。

早稲田大学は、その前年度と前々年度、2年連続で日本選手権に於いて社会人を破り、日本一に輝いていた。その2年間は1試合の引き分け以外、すべての試合に勝利していた。その攻撃の中心には、162㎝、63㎏のスクラム・ハーフ(以下、SH)宿沢広朗がいた。SHはラグビーでは最も小さい選手ができるポジションとされているが、そんななかでも宿沢選手はひときわ小さかった。

宿沢選手は、もともとラグビーで早稲田に入ってきた選手ではない。進学校としては有名だが、ラグビーでは無名の埼玉県立熊谷高校(当時から埼玉県のラグビー名門校は熊谷工業)を出て、早稲田大学政経学部に現役で入学する。

一般学生として、当時東伏見にあったグラウンドに練習を見学に行き、「これなら僕にもできそうだ」と思ってラグビー部に入部したとのこと。伝統の猛練習で知られる早稲田大学のその練習風景を見れば、ラグビーで入ってきた学生たちでも後ずさりするものと聞いたことがあるが、ここらへんに大学時代から日本代表選手となり、キャップ3を取得した宿沢選手の、スケールの大きさの片鱗が表されているように思う。

1年生からレギュラー入りし、2年生、3年生のとき日本一を経験している彼が、4年生になって主将に抜擢されたのは当然のことだったのだろう。前年度、前々年度よりもかなり戦力は落ちているが、彼のリーダーシップで、関東大学対抗戦全勝、そして大学選手権も準決勝で慶應義塾大学を破り、決勝の明治戦を迎えた。

前述の通り、最後の最後まで勝っていたが、「リードしていても攻め続けなければいけないのに、どこかに逃げようという気持ちがあったのかもしれません。試合中に優勝カップがスタンドから降ろされてくるのが見えましたからね」と試合後に彼は話したそうだ。

それから16年あまり、平成元年(1989年)の5月28日、学生時代最後の公式試合、主将として辛酸をなめた秩父宮ラグビー場へ、今度は日本代表を率いる監督として戻ってきた。そして、戦前はだれも本気で予想できなかったスコットランド戦に28-24で勝利をもぎとってしまうのである。

今まで、日本代表は昭和46年(1971年)イングランドに3-6、昭和58年(1983年)、ウエールズに24-29とギリギリまで肉薄することはあっても、いわゆるホーム・ユニオン(イングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ)のチームに一度も勝つことはなかった。

それを宿沢広朗監督は、就任後わずか2ヵ月の初試合で達成してしまった。マスコミはさっそく“宿沢マジック”などともてはやしたが、当然のことながら、宿沢さんは勝利のために綿密な計画を立て、努力をしていたのである。

早稲田大学を卒業後、住友銀行に入った彼は、ロンドンで7年間勤務し、本場のラグビーをつぶさに見てきている。そして、スコットランドというチームの魅力とともに、弱点も分析していたようだ。そして、監督就任後の極端に短い準備期間の間に、徹底して最近のスコットランドの情報を収集した。

かのチームが来日後、秩父の宮ラグビー場で秘密練習を行なっているときも、ラグビー場に隣接する商社のビルのブラインドの隙間から、ひそかに望遠鏡でその様子を細かくチェックした。そしてその情報を、自分が選んだ選手たちにわかりやすい言葉で伝えていく。

と同時に、負け癖がついてしまって自信を失っている日本代表の選手たちに、「勝つためには何が必要か」をねばり強く説き、「君たちは本気で勝てるのだ」と訴えかける。それを、その時の主将、平尾誠二がそのクレバーさで真っ先に受け止め「俺たちは勝てるんだ」と一人ひとりの選手に落とし込んでいったのだ。

私は、宿沢さんが大学時代、最後の最後で気持ちが逃げてしまい大きな失敗をした経験を、16年の歳月の後、見事に生かしたのだという気がしている。いくら善戦してもそれだけではやはり意味がない、「勝つ」ということに執着し続けた人だった。

その歴史的なスコットランド戦勝利から、17年の歳月が流れた今月の17日、宿沢さんは逝かれてしまった。多くの方々が語るように、間違いなく将来の日本ラグビー界を背負っていく方だった。この方の損失は、日本のラグビーがこれから10年間の遅れを強いられるような、言葉に尽くせないほどの痛手だと思う。今の私は、はっきり絶望している。

生前、グラウンド以外で一度だけ宿沢さんのお姿を拝見したことがある。私が自転車で店への通勤途中、等々力にある道で犬を連れて散歩をされていた。確かに背の低い方だったが、真っ黒に日焼けした精悍な顔と体躯は迫力に満ち、この人に今タックルされても私などはひとたまりもなく吹っ飛ぶんだろうな、という思いが脳裏をかすめたのを覚えている。

衷心より、哀悼の意を表したいと思う。

※参考図書:『ラグビー伝説』(「ナンバー」編)、『ラガーメン列伝』(末富鞆音編)、ともに文春文庫ビジュアル版。『テストマッチ』(宿沢広朗著;講談社〉。

 

 

第78回:そろそろ帰って来てくれないかなあ、ちあきさん