第270回:流行り歌に寄せて No.80 「北帰行」「「惜別の唄」-その2~昭和36年(1961年)
〈筆者より〉
最初に、訂正、補足させていただきたいことがあります。前回のこのコラムで、タイトルでは『惜別の歌』とし、歌詞の紹介や文中では『惜別の唄』という表記をしたことです。
島崎藤村の若菜集『高楼』の一部から取り、中央大学の学生歌とした作曲者の藤江英輔は『惜別の歌』としていますが、小林旭の吹き込んだレコードジャケットには『惜別の唄』と明記されているため、『流行り歌に寄せて』というこのコラムの趣旨からして、今回は『惜別の唄』で統一させていただきたいと思います。
また、前回『北帰行』『惜別の唄』とも三拍子の歌と記載いたしました。しかし、『北帰行』は4分の3拍子ですが、『惜別の唄』は8分の6拍子であることが、その後分りました。深くお詫びし、訂正させていただきます。
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『北帰行』の作者、宇田 博は大正11年(1922年)の生まれ。中国の奉天一中から飛び級で一高を受験したが失敗し、満州国の新京にある建国大学予科に入学するが半年で退学となり、昭和15年、開校したばかりの旧制旅順高等学校(以下:旅高)に入学することになった。
しかし、彼の望むおおらかで自由な学生生活は、戦時下に作られた新制高校においては当然果たされることはなく、彼の取った行動はことごとく教官たちの目に止まるものだった。
翌昭和16年5月、ある女性とデートしたことにより「性行不良」として、宇田は退学処分となる。二人で映画を観た後、酒をしこたま飲んで帰寮したということであるから、戦時下でなくても処罰の対象になるのは間違いないことだとも思う。
そこで、学校を去る宇田が在校生たちに残した歌が『北帰行』であり、その後、旅高の学生たちの愛唱歌となっていくのである。その原曲は小林
旭で知られる前回掲載したものと比較すると少し異なっている。
小林版は3番までなのに対し、原曲は5番まである。双方の1番は全く同じで、小林版の3番と原曲の5番はほぼ変わりない。小林版の2番に当たるものが、原曲の2、3、4番で、宇田の心情が具に描かれているのである。ある種、恨み節の体とも言えようか。参考に原曲の2番から5番を下に記してみる。
2.
建大一高旅高
追われ闇をさすらう
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)ほすに由なし
3.
富も名誉も恋も
遠きあこがれの日の
淡きのぞみはかなきこころ
恩愛我を去りぬ
4.
わが身容(い)るるにせまき
国を去らんとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か
5.
いまは黙して行かん
何をまた語るべき
さらば祖国わがふるさとよ
あすは異郷の旅路
あすは異郷の旅路
宇田は、その後、内地に戻ってきて念願の一高入学を果たし、東京大学を出てTBSに入社、最後は役員まで登りつめた。
『惜別の唄』の詞の元となった島崎藤村の『若菜集』の中の『高楼(たかどの)』という詩も、少し長くなるがここに引用してみようと思う。この詩は、嫁に行く姉と、それを送る妹の掛け合いの、いわゆる対詠形式を取っている。下線部が『惜別の唄』に使われている部分。小林版の4番と原詩では大きく異なっていて、元々は原詩の方で歌われていたようだ。
『若菜集』より『高楼』
ひとを をしむと こよひより とほきゆめちに われやまとはん
妹 とほきわかれに たへかねて このたかどのに のぼるかな
かなしむなかれ わがあねよ たびのころもを とゝのへよ
姉 わかれといへば むかしより このひとのよの つねなるを
ながるゝみづを ながむれば ゆめはづかしき なみだかな
妹 したへるひとの もとにゆく きみのうへこそ たのしけれ
ふゆやまこえて きみゆかば なにをひかりの わがみぞや
姉 あゝはなとりの いろにつけ ねにつけわれを おもへかし
けふわかれては いつかまた あひみるまでの いのちかも
妹 きみがさやけき めのいろも きみくれなゐの くちびるも
きみがみどりの くろかみも またいつかみん このわかれ
姉 なれがやさしき なぐさめも なれがたのしき うたごゑも
なれがこゝろの ことのねも またいつきかん このわかれ
妹 きみのゆくべき やまかはは おつるなみだに みえわかず
そでのしぐれの ふゆのひに きみにおくらん はなもがな
姉 そでにおほへる うるはしき ながかほばせを あげよかし
ながくれなゐの かほばせに ながるゝなみだ われはぬぐはん
この詩に触発されて、昭和19年12月に曲をつけたのは、当時中央大学法科の1年生だった藤江英輔だった。彼は当時、勤労動員として陸軍第一造兵廠という大きな兵器工場で働いていた。ある日、膝が没するくらい積雪のあった雪道をマント、朴下駄の姿で寄宿先へ帰る途中、「悲しむなかれ わが友よ」というメロディーがふいに噴き出してきたという。
原詩を知る藤江は、当然、「かなしむなかれ わがあねよ」と分っていたが、多くの友を召集令状により見送り、多くの悲しい別れを体験してきた彼には、「友よ」という言葉が自然に口をついて出てきたのだろう。寄宿先に帰り1日で曲をつけ、その後工場で旋盤を回しながら歌っているうちに、みんながその歌を知ることになり、学友を送る送別の歌となった。
戦後の昭和26年、大学を卒業し新潮社に勤務していた藤江は、偶然にも職場で島崎藤村の三男である島崎蓊助に出会い、彼が藤村の著作権継承者であったため、事情を話しレコーディングの許可を得る。そして、中央大学の正式な学生歌として公認されたこの曲はグリークラブによるレコーディングを行なうことになったという。
さて、そんな背景で生まれた二つの曲を、小林 旭によって歌われ、後世にまで歌い継がれることになった、その功労者がいる。日本コロムビアの辣腕ディレクター馬渕玄三、彼は後に五木寛之の小説『海峡物語』『旅の終わりに』などに登場する「艶歌の竜」こと『高円寺竜三』のモデルになった男である(前回はプロデューサーと記載してしまいましたが、こちらも訂正させてください)。
馬渕は美空ひばりや島倉千代子などの大スターを手掛けた人で、営業、販売、宣伝部門で10年以上、いわゆる叩き上げた後、ディレクターになったという経歴を持つ。
小林 旭は当時、『アキラの○○節』など、映画の主題歌に絡ませた歌を歌い続けていたが、決定的なヒット曲には到っていなかった。馬渕は『北上夜曲』の大ヒットが、歌声喫茶から火が着いたことから、歌声喫茶で人気のあるものを探してきて、小林に歌わせようとした。それが、歌声喫茶では『旅の唄』として歌われていた『北帰行』と『惜別の唄』だった。
『北帰行』の方は、作者として名乗り出たばかりの宇田 博を訪ね、レコード化の許可を取り付け、さらには上記のように5番まである原曲を3番までに短く改作までしてもらっている。
『惜別の唄』については、当時の日本コロムビアの邦楽部長であった目黒賢太郎に、藤江英輔の自宅まで行ってもらい、「小林旭によりレコーディングは終わっています。あと1週間で発売するので、何とかご許可を…」と、半ば事後承諾のような形で強引に許可を得たという。
そして、昭和36年10月5日、小林旭による『北帰行』と『惜別の唄』をA・B面としてプレスされたレコードが、発売されることになったのである。
前々回のコラムの繰り返しになるようだが、大きなヒット曲が生み出された背景には、それこそ何曲も歌にできそうな数多くのドラマが埋まっているのだなあと、この項を書き続けていてつくづく思う。
-…つづく
第271回:流行り歌に寄せて
No.81 スーダラ節」~昭和36年(1961年)
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