第124回:絶景のウォーターフロントマンション
Figueretas(フィゲレータス)の海岸
『カサ・デ・バンブー』の前の緩やかな坂を150メートル程上り、車の通れる道を西に取り、フィゲレータス(Figueretas)方面に向かうと、崖の上に如何にも見晴らしの良さそうな高層マンションが幾棟かある。それらのマンションからは遮るものなしに真っ青な地中海の眺望が開け、フォルメンテーラ島を見渡せる。しかも、イビサの街までは歩くことができる距離だから、この島のまず一等地のロケーションだ。
スペイン人は時折突拍子のないことをやる。自分のアイディア、思い込みが先行し、現実を置き忘れてしまうのだ。結果、類を見ない建築、ガウディのサグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)のようなファンタジー溢れる構築物ができあがることもある。
一等地であるロスモリーノスからフィゲレータスに抜ける道は急な崖を削って造られていて、そこに空中庭園付きの別荘を建てれば、さぞかし素晴らしいものになる…とまでは誰でも想像する。だが、想像だけでなく、そんな急斜面に8階建ての超高級コンドミニアムを建てようとした御仁が現れたのだ。
普通の人なら、まず地質の調査、土木建築の専門家の詳細な安全工法、それに基づいた市の建設許可取得という手順を踏む…と思うのだが、本人はともかく建ててしまえば後の書類上のことはどうにでもなると考えていたフシがある。実際、スペインにはそのように現実先行型で物事が処理される傾向があるにはある。役所が要求する書類をすべて揃えるには人生は短すぎる、いつまで経ってもラチが明かないと工事を敢行した可能性はある。
こんな大掛かりな建設が政府の許可なしで始まったとすれば、それも奇妙な話だが、ともかくこの壮大な建築は進められ、各階のフロア、テラスまででき上がり、後はテラスのフレンチドア、窓を入れれば、すぐにも買い手が付くだろうと思わせるところまで工事が進んだ時点で、すべてがピタリと止まったのだ。
確かに崖にへばりつくように建てられたコンドミニアムはズリ落ちそうに見える。しかし、もっと危なっかしい岩の上に建てられた別荘はいくらでもあるのだ。よくぞあんな場所に建てたもんだとあきれる家がほぼ垂直に切り立った海からそびえる岩の孤島に何世紀も経て無事に建っているのは珍しいことではない。だが、これは私のような素人が外見だけで判断したことで、実際の地質の調査、土台としてどれだけ深くボーリングをし、コンクリートで固めるかなどの建築上の現実を知らずに外見だけから判断してのことだ。
Los MollinosからFigueretasへ向かう小道(Google Mapより)
『カサ・デ・バンブー』を開く時、イビサ市の建築安全基準局の人間が『カサ・デ・バンブー』の建築の監査のためにやって来た。その時、未完成の豪華コンドミニアムのことを雑談として訊いたところ、バルセローナの開発業者がイビサに政治力を持つ知人を通して圧力を掛け、ゴリ押しというより、全く無許可で工事を始め、ビルの外壁を造ってしまった。違法だから、当然、電気、水道・下水道も市としては供給できない。尽きるところ、イビサ市がカタルーニア人の政治力に勝ったということだろうか、工事は中断されたままになったと言うのだ。
私は散歩がてら、その建物に入ってみたことがある。最上階からの眺めは、海辺の『カサ・デ・バンブー』とは別物で、天から見下ろすように眼下に海が広がり、東にはイビサの古城を見渡せ、100万ドルの眺望と呼びたくなるものだった。そこがコンクリートのフレームだけでうち捨てられているのはなんとも悲しいことだった。
幾月もせずに、その違法ビルのテラスに洗濯物が翻っているのが目に止まった。夏場、あのような最高の場所でキャンプを決め込んだ人がいると思っていた。それが最上階に始まり、アレヨと言う間にすべての階に洗濯物だけでなく、生活臭が漂い始め、中で火を炊いているのだろう、テラスからオーバーハングしている庇が煤けて黒くなりだしたのだった。
ヒターノ(gitano;ジプシー)家族が住み始めたのだ。カルメン叔母さんの姪っ子、ロシータがピンチヒッターとして洗い場に来た時、彼女が夫、二人の赤ん坊、弟二人とそこに住んでいることを知った。
「イビサの最高級マンションに住んでいるではないか…」と冷やかすと、「何が最高級なもんですか、電気、水道がない高級マンションがどこにあるもんですか。テレビが観られないのと、洗濯ができないのが一番大変なのよ」とこぼすのだった。
もとより、電気、水道、下水なんぞないことは承知の上で“不法?”占拠したところだから、当然トイレもない。イビサ市はヒターノたちに何度も退去命令を文書と口頭で告げ、バラセンを張り巡らし、そこに立ち入り禁止をキツイ言葉で書いた看板を針金で縛り付けた。
そこに住んでいるヒターノ全員が目に一文字もない文盲ではないだろうし、若者の中に字を読める者もいるだろうけど、こんな時には、全員揃い踏みで文盲になるのだ。そして、看板はその日の夕暮れには取り外され、バラセンにフェンスも綺麗に消え去っているのだった。
イビサ市とヒターノはイタチゴッコを繰り広げたのだった。こんな時、大勢の軍隊でも出動させ、見張り番でも置かない限り、勝つのはヒターノに決まっている。8階の各フロアに四つのユニットがあったが、そのユニットに平均5人は住んでいるだろうから、少なく見積もっても160人のヒターノが生活していることになる。これはもう居住権を主張できるチョットした集団になりうる数だ。
商売っ気のあるヒターノはトラックにポリタンクをわんさと積み込み、そこの住人相手に水売りを始めたり、小銭を持った住人は小型の発電機を持ち込み、文化生活を営み始めたりで、一つの部落になっていったのだった。近くを通る際にやりきれないのはその臭いだった。それだけの人たちの汚物が崖に捨てられるのだから当然そうなる。黄金の滝が出現したのだ。
この廃墟に化した高級コンドミニアムは、破壊しない限りヒターノの部落として永遠に続くことだろう。
私がイビサを去った時には、そこはまだヒターノに占拠されたままだったし、ヒターノの間で、先住権が結構な値段で売り買いされているという“ウワサ”だった。
第125回:イビサのティーンエイジャー
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