第27回: イビサの皇族たち ~ユーゴの王女様
色気狂いのメンチュを満足させることができるのはアントニオしかいない、普通の男では一月ともたず殺されてしまう、もう残された相手はヒターノしかいないと噂されていた。
どういう事情からかアンヘリータとアントニオの母親が店の洗い場に一緒に来たことがあった。彼女の名もアンヘラで、至ってややこしいが、母親アンヘラは今でこそ盛大に体も顔も太り丸くなってはいるが、はるか昔にはきっとかなりに美形だったと思わせた。なんせ美人のアンヘリータ、ハンサムな優男アントニオの母親なのだ。
「あんたの娘、息子、二人とも大変な音楽家だな。将来、その道を生かす方法はなかったのか、こんな島で埋もれてしまうのはもったいないではないか…」などと世間話をしていたら、アンヘラの表情が突然引きつり、涙を浮かべ、口ごもるように、「あの女は魔女だ。最低のバイタだ。息子のアントニオをすっかりダメにしてしまった。あの女を殺すためならワタシャ何でもするよ…」と震える声で訴えたのだ。
私は意味のないありきたりの慰めの言葉で、「アントニオはまだ若いから、時機にメンチュから離れ、自分の道を見つけるさ…」と投げかけたのだった。
メンチュ“公爵夫人”が、「内輪のパーティーをやるから、ぜひ来てね」と、招待してくれたことがあった。彼女の家はイビサの伝統的な農家(Finca;フィンカ)を改造した素朴だが豪華なチャレット(荘園別荘)だと人伝てに聞いていたから、家だけでも見てみたいと思ったが、小さいながら手を離すことのできないショーバイをしている以上、店を閉めるわけにいかず、行けず仕舞いだった。

イビサ郊外にある豪華なフィンカ(本文と関連なし)
ファッショナブルなサンダル、靴、ブーツ、そうなのだ。この暑い夏の島で、ブーツが大流行したことがあった。そんなファッショナブルな靴屋の友人サファリが、「そりゃ、惜しいことをしたな、最上級のマリファナ、ハシシは吸い放題、よく冷えたシャンペンも大量にあったぞ」と報告してくれた。付け加えて、「オレにゃ、マリファナでラリッテ、酔って、乱交みたいにセックスするのは趣味じゃないけど…」と言ったものだった。
旧市街の青物市場でメンチュと逢った時、彼女は10歳くらいの少女を連れていた。メンチュは私の娘よと、なにやら自慢げに紹介してくれた。それが、絶世の美少女とお墨付きを与えたくなるような美形だったのだ。茶色の丸い目、優しく弧を描く眉、完璧な卵形の顔、余計な肉がつき始める前の細くスラリとした肢体、どこをとっても輝くばかりの美しさに溢れていたのだ。
私はスペイン流に両方の頬っぺに軽くキスする挨拶にすでに慣れてはいたが、メンチュが私を、「私の友達、タケシよ…」と言った時、娘は(どうにも名前を思い出せないのだが…)片足を半歩引き、薄い白いスカートを両手で摘み、軽く膝を折り、まるで映画で中世の女性貴族が挨拶するようなシグサを自然にしたのだった。
私はハグしようとしていた両手をやり場がないまま、アヤフヤに降ろし、「お母さんと一緒に、イビサの太陽をたっぷり楽しんで!」とか言って別れたのだった。状況証拠だけだが、どうもメンチュの娘は全寮制の学校かそんなタグイのところに入れられ躾られているようなのだ。ということは、メンチュ自身も元はそのような環境で育ったのだろうか。
メンチュを最後に見てから、4、5年は経っていたと思う。この頃、メンチュを見かけないし、バー『公爵夫人』も閉めたままなので、靴屋のサファリに尋ねたところ、アレレ、そんなことも知らないのかといった呆れた態で、メンチュは脳腫瘍が悪化してバルセローナに帰ったということを告げられたのだった。それから、1年も経たずしてメンチュが亡くなったことを知った。

毎年、『アドリブ・モダ・イビサ』のステージが設営されるVara de Rey
メンチュが公爵夫人なら、次は王女様に登場してもらう。ユーゴスラビア(当時一つの国だった)の王女様という触れ込みの六十女がイビサにいた。彼女の名はスメルジャコフ、この名前を聞くたびにドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』に登場してくる、性格のイビツな末の弟を思い出してしまう。
こちらの王女様は、中年から初老の太り気味の身体を悠々と運んでいる中背で、スザマジイ厚化粧の老嬢で、ユーゴスラビアがチトーの下で社会主義国家になった時に亡命してきたという触れ込みだった。
私はファッション業界に至って暗いが、この王女様、スメルジャコフがイビサのファッション界の大立者なのは確かで、彼女が主催するファッションショーはイビサのヴァカンス・ファッションを“アドリブ・ファッション”とか名づけて、その年の動向を左右していた。
毎年、ヴァカンスが最盛期に入る前に行われるファッションショー『アドリブ・モダ・イビサ』(Adlib Moda Ibiza)は、ヨーロッパ、アメリカからバイヤーがドッと押し寄せ、地元の小さなブティックもスワッとばかり、その年の流行りに従い、似たようなドレスを売りまくるのだった。
ファッションショーはイビサの町で唯一の大通り、といっても札幌の大通公園の一丁角を短く、幅も狭くしたようなヴァラ・デ・レイに特設舞台を設け、野外で行われる。舞台装置だけ見ると田舎町の盆踊りの会場のようだが、そこで取引され、また、取引が見込まれる金額は私の低い基準で計るとまるで天文学的数字なのだった。
ユーゴの王女様、プリンセス・スメルジャコフがファッション界にどのような地位を占めていたのか、デザイナーとしての評価などは私に語る資格はない。だが、イビサのファッション業界では大物であり、実業家として成功していたことは確かだ。
バルセロナにブティックを持っている日本人でスペイン国籍を取得している松尾さんは、毎年、イビサのファッションショーの時期に買い付けに来ていた。その年の動向を早く見極め、売り残しのない量を買い付け、シーズンが終る前に、サッと売りさばくだけが、この業界で生き残る術だとか語っていたものだ。
松尾さんによれば、プリンセスは相当なやり手で、しかも、スペインだけでなく、ヨーロッパの避暑地に強いコネ、ネットワークを持っているということだった。
-…つづく
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