第9回:サンドクリーク前夜 その5
1862年から3年越しの旱魃は、インディアンを悲惨な状態に追いやった。それは丁度南北戦争の激戦時に当たる。
ミネソタからのヤンクトスウー族とミズリー河畔に住むスー族が他の部族を誘い込み、プラッツ川を渡り、パイオニア入植者や幌馬車隊を盛んに襲うようになった。白人側の記録しかないのだが、それによると、旱魃の期間1865年までに700人以上の白人が殺されている…とある。
逆に、その期間、餓死あるいは疫病で死んだインディアンの総計はない。推測の範囲を出ないのだが、1862年から1865年、奇しくも丁度南北戦争期間に当たるのだが、その旱魃の期間に死んだすべての部族のインディアンは2万人を下らないだろう。
サンドクリークの虐殺事件が起こった1864年は、事件の多い年だった。“ローマ人の鼻”と呼ばれた酋長に率いられたシャイアン族は、1862年から暗躍していたが、旱魃を期に果敢に白人の開拓部落、幌馬車隊を襲撃するようになった。とりわけ“ローマン・ノーズ”が若者のテロ集団“ドッグ・ソルジャー”を統率してから、剽悍な襲撃を繰り返すようになり、残虐性も増した。これには、騎兵隊も手を焼いた。広範囲に及ぶ神出鬼没の襲撃は捕まえどころがなく、騎兵隊が駆けつけた時には開拓部落は焼かれ、男どもは殺され、女性、子供は連れ去られた後だった。ドッグ・ソルジャーは本部のような基地を構えず、常に移動していた。
“ローマン・ノーズ”は神がかり的な戦闘能力を発揮した。同時に統率力もあり、互いにいがみ合っていた部族の間でも彼の勇猛さは知れ渡り、ドッグ・ソルジャーに加わるインディアンが増えていった。

1868年、ララミーで撮られたローマン・ノーズの暗い写真
それでも額に意思の力がみなぎっているように見て取れる
数多くあったインディアン襲撃事件の中でも、1864年6月11日に起こったワーマー(Isaac P. Van Wormer)の牧場事件は、デンバーに近いこともあり、またグラフィックな残虐性が誇大されて当時のゴシップ新聞に様々に書かれ、西部全域に渡り、インディアンは非道で残酷な人間だ、絶滅させるべきだという世論を作り上げるきっかけになった。
ワーマーの牧場はデンバーの南東、凡そ40マイルのところ、現在の州道86号上にあり、ランニング・クリークと呼ばれている、名前にもなっていないクリーク沿いのエルバート郡にある。
その日、牧場主のアイザックは備品などを買うためデンバーに出かけており、牧童のワード・ハンゲイト(Ward Hungate)とエドガー・ミラー(Edgar Miller)は牧場に残り、フェンスの修理をしていた。その時、二人がほとんど同時に彼らの家の方から真っ黒な煙が上がっているのを目にした。彼らはその煙が何を意味しているか、瞬時に理解したに違いない。インディアンの襲撃以外にあり得ない。
牧童たちの家は、ワーマー牧場から1マイルほどの距離にあった。エドガーは隣人たちへ警告を発し、同時に救援を要請するため馬を走らせ、ワードの方は自分の家へと急いだ。家に彼の妻、二人の幼い娘がいたからだ。
まだインディアンがいる可能性があったので、エドガーが助っ人を集めに近隣を回ったのは当然の行動だった。5~7人の隣人たちがライフル片手に駆け付けた時、キャビンはすでに焼け落ち、壊された柵内の馬と牛はすでに盗みとられていた。
小屋に残っていたもう一人の牧童は、胸と頭に矢を受け路上でことキレていた。すぐにワードの妻と娘二人の遺体が見つかった。一人は1歳、もう一人は4歳だった。二人とも喉元を切られ、井戸に投げ込まれていた。夫人は悲惨な姿だった。裸に剥かれ、何人もに強姦され、同時にナイフで切り刻まれる拷問を受け、お腹を切り裂かれ、内臓は掴み出されていた。3人とも頭の皮を剥がされていた。
遺体の状態がハッキリしているのは、凄惨な4人の遺体を天蓋なしのワゴンに乗せ、デンバーに乗り入れ、それを目撃した人が数百人もいたからだ。
このエリザベス村の虐殺、ハンゲイトの殺戮と知られるようになった事件は、反インディアン派にインディアン絶滅に絶好の機会を与えることになった。その手の新聞、ゴシップ雑誌は、扇情的に、大袈裟に書き立て、西部の開拓民、全住人を守るには、対インディアン強行策しかないと世論を煽り立てた。
武装したモブ(私兵にも至っていない暴力団)は激昂し、インディアン絶滅、復讐に乗り出すべしと知事公邸に押しかけている。その時、公邸に知事のエヴァンスとサンドクリーク虐殺の立役者になるシヴィングトン大佐(Chivington;連隊長)がいたことは分かっているのだが、どのような会話が交わされ、何を決定したのか知られていない。
だが、直後に、シヴィングトンはクラーク・ダン中尉(Clark Dunn)に、「こんな犯罪を犯したインディアンを追跡し、見つけ出したら、逮捕することなど考えるな。その場で処理しろ!」と言い渡し、現地に派遣している。
どの種族、部族の誰がエリザベスの虐殺を行なったかは、すべて状況証拠ではあるにしろ、非常に強力な証左がローマン・ノーズ率いるシャイアン・ドッグ・ソルジャーを示していた。
一方、アラパホ族の戦士らが関わっていたという確証がある…とする歴史家もいる。
白人たちにとって、シャイアンだろうがアラパホだろうが、インディアンであることに変わりはない、このような犠牲者を出してはならない、それにはインディアンどもを懲らしめる必要がある、と結論を引き出した。
エヴァンス知事はサミュエル・カーティス(Samuel Curtis)将軍に電報を打ち、コロラド第三連隊をインディアン討伐に向ける許可を取ったのだった。
エヴァンス知事は即、シヴィングトン大佐に第三連隊を預け、インディアンに公然と開戦を布告したのだった。
-…つづく
第10回:シヴィングトンという男 その1
|