第10回:シヴィングトンという男 その1
アメリカの歴史を観ていると、教会関係の人間が政治に関わることの多さに呆れる。演説が巧みなだけでなく、中には統率力、組織力を持った人物が出ることもある。だが、大半は弁舌が巧みなだけで、時勢に乗るのに機敏で、自己顕示欲だけが滅法巨大な人間が多い。
はっきり言い切って良いと思うが、このジョン・M・シヴィングトン(John M Chivington)という男がいなければ、サンドクリークの大量虐殺は起こらなかった。もちろん時代背景もあり、エリザベス村の凄惨なハンゲイト虐殺事件がきっかけになってはいる。
シヴィングトンは、1821年1月27日にオハイオ州、レバノンでアイザックとジェーンの間に生まれた。信仰心の強い両親の間で育ち、伝道師として、彼の将来は決まっていたかに見えた。両親の期待に応えるかのように、イリノイ州のメソジストの巡回牧師に任命されたのは彼が23歳の時だった。シヴィングトンは声量も豊かで、しかも押し出しが立派であり、説話も巧みだったと伝えられている。
当時、中西部を巡回している伝道師はゴマンといたが、その中でも目立つ存在になっていった。10年もその地位にあったのを、突然辞めたのは、彼がカンサス州―ネブラスカ州会議の時、奴隷解放を歯に衣着せぬ表現で演説し、反対派から命を狙われたからではないかと言われている。メソジスト教会は彼をネブラスカ州、オマハに定着させようとした。

シヴィングトンは押し出しの効く、恰幅の良い男だった
しかし彼は、1860年にまだワイルド・ウエストだったコロラド州、デンバーに移住させられた。その頃から、シヴィングトンの演説、行動が過激に走り出し、極端になっていった。教会はシヴィングトンに地域全体を組織する能力がないのではと疑い始めたのだろう、1862年に伝道師としての職を解かれている。
彼が自発的に辞めたと取るムキもある。と言うのは、デンバーに来た当初から、メソジスト教会組織とソリが合わず、彼が独断で行動することが目立っていたからだ。メソジストの歴史家でシヴィングトンと個人的な知り合いでもあったアイザック・ベアードウスレイによれば、コロラドに移った時から、シヴィングトンは単なる伝道師に飽き足らず、政治に関心を抱き始め、コロラド領域の議員だったジョン・エヴァンスに近付いたことのようだ。
すでに、シヴィングトンの巧みな演説は、ジョン・エヴァンスの耳に入っていたのだろう。しかし、辺境で少しは名の知られるようになったシヴィングトンを、メソジスト教会は切ることもできなかったのだろう、彼の名前を完全に教会サイドの記録からは削っていない。
南北戦争が勃発したとき、コロラド領域の知事はウィリアム・ギルピンだった。彼はシヴィングトンに従軍牧師の仕事を提供している。元々血の気が多いたちだったシヴィングトンはその役をあっさりと断り、軍の経験はゼロであるにも拘わらず、自ら身を挺して戦う方を自己推薦している。
伝道牧師がよく陥るように、自分には人を統率する能力がある…と過信するのだ。北軍も余程人材に事欠いていたとしか思えないのだが、ともかくシヴィングトンをジョン・P・スロー大佐(連隊長)下の少佐に任命しているのだ。教会の演壇で説教をするだけしか能のなかった男が、いきなり400名の騎兵隊を率いる長になったのだ。
1862年3月26日にアリゾナの東、ニューメキシコ領域、アパッチ峡谷で、南軍の将チャールス・L・ペイロン率いる300名のテキサス・レンジャーを急襲し、大勝にはほど遠いが、ともかく勝ちを収めたのだった。南軍側、戦死者5名、負傷者20名、捕虜75名。シヴィングトン側、死者5名、負傷者14名だったから、勝ちは勝ちで、この小競り合いですっかり自信を付け、シヴィングトンは増長した。
彼の軍歴をどう評価するかは微妙なところだが、ニューメキシコのグロリエタ・パスで偶然から出会った南軍の供給物資の幌馬車隊を壊滅させている。戦争に偶然は大きな要素であり、運が良いかどうかは重要な要素だ。
彼は細かく地形を調べ、斥候を放ち、敵状を仔細に調べる緻密さはなかったが、決断力に富み、自軍、騎兵隊を奮い立たせる能力があったと思う。
でも、すべては、彼が酔っ払いのならず者騎兵隊を率いて、サンドクリークのシャイアン族部落を虐殺したことで、消し飛んでしまうのだが…。
-…つづく
第11回:シヴィングトンという男 その2
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