■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
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第51回:お国言葉について ~
第100回:フラワー・オブ・スコットランドを聴いたことがありますか
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第101回:小田実さんを偲ぶ
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか
第103回:ラグビー・ワールド・カップ、優勝の行方
第104回:ラグビー・ジャパン、4年後への挑戦を、今から
第105回:大波乱、ラグビー・ワールド・カップ
第106回:トライこそ、ラグビーの華
第107回:ウイスキーが、お好きでしょ
第108回:国際柔道連盟から脱退しよう
第109回:ビバ、ハマクラ先生!
第110回:苦手な言葉
第111回:楕円球の季節
第112回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(1)
第113回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(2)
第114回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(3)
第115回:サイモンとガーファンクルが聞こえる(1)
第116回:サイモンとガーファンクルが聞こえる(2)
第117回:銭湯エレジー
第118回:さまよい走る聖火リレー
第119回:錆びた釘の味

■更新予定日:隔週木曜日

第120回:麻雀放蕩記

更新日2008/05/22


最近の若い人たちは、あまり麻雀を打たなくなったらしい。学生、サラリーマンどちらとも、それは言えるようだ。最も、明らかに酒も飲まなくなっているのだから、「飲む、打つ」ことにそれほど興味を持たなくなっているのだろう。

自宅やゲームセンターでのネットを使った麻雀ゲームは、そこそこ流行っているから麻雀人気が廃れたとは言えないという人もある。けれども飽くまであのゲームの楽しさは、たとえ少額であれ金を賭けて行なうところにあると考えるのだ。

街からは少しずつ雀荘が消え、いつのまにか駅の売店では麻雀専門誌を置かなくなってしまった。ある時期、何かに取り憑かれたように麻雀を打っていた者にしてみれば、やはり少し寂しい気持ちになる。

私が麻雀を覚えたのは、二十歳ぐらいの頃、近くのやきとり屋さんで働いていた二人の、謂わばお兄さんたちに手解きしてもらったことからだった。彼ら二人は私より7、8歳年長で、無類のギャンブル好きだった。競輪、競馬、パチンコ、麻雀、稼いだ金のほとんどを賭け事に使っていた。

私に麻雀を教えてくれたのは、「覚えさせてカモってしまえ」という魂胆が皆無だったとは言えないが、あまり初心者から金を巻き上げることをしない人たちだった。その店は土曜日が休みだったので、毎週その内の一人のアパートに行っては麻雀を打った。

時々、店のお客さんである保育園の若い保母さんも打ちに来ていたりして、わり合いに和気あいあいの雰囲気で行なわれていたが、とにかく私は弱かった。それは、その先もずっと変わらず、非常に低レベルの力を保ち続けてきたのだ。

その後、私はアルバイト先の新宿二丁目の喫茶店でのメンバーと麻雀に高じた。その頃の喫茶店や飲み屋で働く連中の大半はそうであったが、その喫茶店のメンバーも呆れるほどの「ギャンブラー集団」だった。

以前、このコラムにも書いたことがあるが、喫茶店のドアを開けて入ってくるお客さんが男か女かで100円(オカマは分かれ)を賭け、電話帳をめくってはそのページ数の並んだ数の合計でオイチョカブをする。休憩時間はパチンコ屋に走り、土日は場外馬券売り場に走る。そして、毎日仕事が終わると雀荘で麻雀を打ち、たいがいは徹マンになる。

他のギャンブルは一切付き合わなかったが、麻雀だけは律儀に付き合い、律儀に負け続けた。けっして誰かに脅されて雀荘に向かうのではなく、自ら「勝つ気で」メンバーに加わるのである。

月末に精算を行なうのだが、70年代の後半にさしかかろうという当時、月に10万円くらい負けたことがある。アルバイト代ではもちろん返しきれず、親に嘘を言って無心をして返した。しかも浪人生の身、信じられない馬鹿である。今、当時の自分に会ったら、「いい加減にしろ!」と言って、思い切りぶっ飛ばしたい心境である。

打ち始め、今日は調子がいいなと思いつつ打っていても、徹マンの途中ぐらいから体力が続かず、集中力を欠きだし、つまらない放銃をしてしまう。そして明け方近くになった頃には、いつものように大きく凹んでいるのである。

そして帰りは、雀荘の裏口から外に出ると、そこには眩しすぎる朝の光が差していて、目にやるせない痛みを覚えるのだ。喫茶店での仲のよい先輩(と言っても充分にカモってくれたが)に、
「K、おまえ文章書くの好きなんだから、負けっぷりを小説に書いたらどうだ。阿佐田哲也の向こうを張って、よく振り込むから『麻雀放銃記』、いや、親に迷惑ばかりかけているから『麻雀放蕩記』はどうだ」と、思い切り揶揄されたことがある。私は力なく笑うだけだった。情けなさ過ぎる話である。

就職して社会福祉の仕事をしていたときは、まわりに麻雀を打つ人たちがいなかったのでしばらく止めていたが、その後サラリーマンに転じてからは、またぞろ麻雀を打ちたい虫が動き始め、会社の先輩たちと雀荘に通うことになる。

そこでも私は弱かった。さすがにもう親に頼ることができないので、当時あこがれていたプロの雀士、古川凱章氏の本などを買って勉強をしてみるのだが、上達の気配がなかった。ただ虚しく敗戦を繰り返していった。

そしてある夜、4回の半荘で合計108点負けたとき、私はこのゲームを止めることを決意した。ちょうど煩悩の数だけ麻雀で負けた。そして、どう考えても今後勝てる見込みはない。もういいだろう、もう足を洗おう。

そして、その時の面子に、「私は今日で麻雀を止めます。今までお付き合いいただきありがとうございました」と頭を下げた。それでも会社の人たちは、後日私を何回か誘ったが、私はその度に固辞し、彼らも漸く諦めていった。

私は美しい手作りが好きだった。「タンピン三色一盃口ドラ1」が理想とする和了だった。けれども、ある人に、「同じハネ満でも『リーチドラ5』の方を好まなければ本当に強くならない」と言われたことがある。そういうことなのだろう。

私は、他のギャンブルにはまったく興味を持たなかった。競馬をしたことは、生涯3回きりだし、もちろん自転車、ボート、オートの経験はない。パチンコはあの騒音の中に身を置く気持ちが分からないし、韓国のウォーカー・ヒルに友人のつきあいで行ったときも、結局一度もテーブルに着かなかった。

『麻雀』とは雀の鳴き声がする麻薬だと言う人もいた。もう十何年卓を囲んだことはないが、確かに一時期、その麻薬に溺れていたのだろう。でも、今回これを書いていて妙な心持ちになった。ここまで自分が弱いと書いてしまったのだから、誰かから誘いの話があってもいいのじゃないか。

 

 

第121回:ラグビー、南北半球クラブ・チーム選手権決勝