第317回:流行り歌に寄せて No.122「愛して愛して愛しちゃったのよ」~昭和40年(1965年)
敬愛するハマクラ先生の大傑作、この曲のことを書けるだけでウキウキしてしまうような、私の大好きな作品である。
まずタイトルが素敵である。歌詞の中身ではなく、タイトルをここまで甘く繰り返させているのが、ある種、衝撃的である。発売当時、多くの人たちは、かなり驚いたことだろう。
イントロのスチール・ギターのとろけるような音色から、マヒナの松平直樹のいやらしいほどに色気のあるテナーに、当時21歳だった田代美代子の柔らかい声が絡んでいく。本当によくできた作品だと思う。
但し、半世紀以上前の小学4年生になったばかりの私には、どうにも苦手な曲だったのである。大人のくせになんて軟弱な歌を歌うのだろうか、なんか情けないな、こんな大人にはなりたくないなと思っていた。時々父親が酔っ払ってこの歌を口ずさんだりした時は、いつものしっかりしたお父さんはどこに行ってしまったのかと、恥ずかしく、がっかりした思いになったものだった。
いつからこんなに この曲を好きに なったのか。
「愛して愛して愛しちゃったのよ」 浜口庫之助:作詞・作曲 和田弘とマヒナスターズ&田代美代子:歌
1.
愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ
あなただけを 死ぬ程に
愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ
ねてもさめても ただあなただけ
生きているのが つらくなるような長い夜
こんな気持ちは 誰もわかっちゃくれない
愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ
あなただけを 生命をかけて
2.
いつからこんなに いつからこんなに
あなたを好きに なったのか
どうしてこんなに どうしてこんなに
あなたのために 苦しいのかしら
もしもあなたが 居なくなったらどうしよう
私一人じゃ とても生きちゃいけない
愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ
あなただけを 生命をかけて
生命をかけて 生命をかけて
田代美代子は昭和18年10月1日、東京は目白に生まれた。父親の転勤の影響で、小学校の低学年から北九州に移り住み、中学、高校は西南女学院で学ぶ。その後上京して、明治学院大学在学中に石井好子に師事し、シャンソンの手ほどきを受け、『銀巴里』『ホテルオークラ』などで歌い始めた。また、鈴木敏夫からはジャズを学んでいる。
昭和40年、イタリア映画『赤い砂漠』のテーマ曲のカヴァーでレコード・デビュー、同じ年、この『愛して愛して愛しちゃったのよ』の大ヒットで一躍名前を知られるようになった。(なぜか彼女のオフィシャル・ウェブサイトには『愛しちゃったのよ』というだけのタイトルで紹介されている)そして、翌年の昭和41年に再びマヒナと組んだ『ここがいいのよ』で第17回『NHK紅白歌合戦』の出場を果たしたのである。
彼女はその後、昭和50年に急性膵臓癌を患い一時芸能界から離れるが、師である石井好子のバックアップで昭和57年には復帰が叶った。そして、昭和60年に歌手生活を本格的に再開してからは、現在でもコンサートや、歌を取り混ぜた講演会などで精力的に活動を続けている。またユネスコ活動にも積極的に携わっている。
向学心も旺盛で、早稲田大学大学院の受験に合格し、平成23年から(ユネスコ活動の影響からか)教育学を学んでいる。歌手になったことにより明治学院大学を中退したが、その約50年後に大学の門を叩くというのは、なかなかできることではないと思う。しかも、歌手生活は続けながらである。
さて『愛して愛して愛しちゃったのよ』は、サザンオールスターズの、原由子&稲村オーケストラによるカヴァーはかなり有名で、ある程度の年齢以下の方は、こちらから入った人が多いようだ。原坊のけだるい歌唱は、確かに秀逸である。
テレサ・テンを始め中国系の歌手たちのカヴァーが多いのが、この曲の特徴でもある。あのメロディーが中国語の発音にマッチしているのだろうか。また、最近では、12年ほど前に奥村チヨがあの独特の色っぽい声でカヴァーしており、時どき有線から流れている。
そして、何と言ってもハマクラ先生によるセルフ・カヴァー。こちらはジャジーで、真に小気味良く歌い、時々スキャットを織り交ぜながら、もう思い切り楽しんでいるという感じがよく、聴いていて思わずニヤニヤしてしまうのだ。
-…つづく
第318回:流行り歌に寄せて
No.123 「新聞少年」~昭和40年(1965年)
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