■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から


Grace Joy
(グレース・ジョイ)




中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。



第1回:男日照り、女日照り
第2回:アメリカデブ事情
第3回:日系人の新年会
第4回:若い女性と成熟した女性
第5回:人気の日本アニメ
第6回:ビル・ゲイツと私の健康保険
第7回:再びアメリカデブ談議
第8回:あまりにアメリカ的な!
第9回:リメイクとコピー
第10回:現代学生気質(カタギ)
第11回:刺 青
第12回:春とホームレス その1
第13回:春とホームレス その2
第14回:不自由の国アメリカ
第15回:討論の授業
第16回:身分証明書
第17回:枯れない人種
第18回:アメリカの税金


■更新予定日:毎週木曜日

第19回:初めての日本

更新日2007/07/12


21歳の時、初めて日本に行くまで、日本のことをよく知っていたわけではありません。ほとんど何も知らなかったと言った方が当たっているでしょう。色々な言葉が好きだった延長で、遊び心でドイツ語、ロシア語、スペイン語などの授業を取り、インドヨーロッパ語系とは全く違った言葉も面白そうだという理由だけで、初級日本語をいたずらに取ってみたのが始まりでした。

卒業の時、ベトナム戦争が泥沼化している時期でしたが、どうにも自分の国が嫌になり、外国で働きたいと思っていました。そこへ偶然から日本ならミッショナリーヴィサで直ぐにも行けることを知り、若さの持つ特権でしょうか、直ぐに決め大阪で暮らすことになったのです。

ミッショナリーヴィサはただの方便で、実際に伝道をしたことはありませんでした。アルバイトで英語学校の先生をしながら、日本語を学び、日本を見て回っただけですが、その10ヵ月間が私の人生を大きく変えてしまったのです。

初めての一人暮らし、しかも外国も外国、東洋のはずれの日本で生活し始めたのです。今思えばたくさんのよい人たちに支えられたのはとても幸運なことでした。その人たちとは今でも手紙、メールをやり取りし、時には再会し旧交を温めています。

そんな人たちの中で、私の日本体験に一番大きな影響を与えたのは"吹田おばあさん"です。英語学校の生徒さんの紹介で、吹田市にある古い家を借りることにしましたが、そこの二軒続きの長屋の大家さんが"吹田おばあさん"でした。

家の半分に大家さんが住み、半分を私が借りましたが、戦前に建てられた家は長いこと誰も住んでおらず、物置のように使われていましたから、まず大掃除から始めなくてはなりませんでした。畳を何度も拭き、積もったホコリを払い、余計なものは玄関先の小部屋にしまい込み、どうにか住めるようにするまでかなり大変でした。

そんな大掃除の間にも、吹田おばあさんはバケツに雑巾を入れて手伝いに来てくれるし、お昼ご飯を持って来てくれるし、足繁く私を訪れいろいろ話しかけてくれるのですが、私の方は日本に来てまだ1ヵ月少ししか経っておらず、一学期だけ日本語を取っただけですから、大阪弁の下町、しかもお年寄りの話す言葉は100パーセント近く分かりませんでした。吹田おばあさんもサンキュー以外の英語は全く知りませんでしたから、今思えば二人の会話を誰かが聞いたなら、吹き出さずにはいられないほど滑稽なものだったでしょう。

トイレはベランダの突き当たりにあり、古いタイプの便槽(というのかしら)へ直接落とす式のものでした。そのベランダからトイレ、というカタカナのイメージではなく、お便所という語感の方がピッタリ当てはまるような雰囲気でしたが、そこに魚の頭が下がっていました。トンチンカンな私たちの会話で推察すると、魔除けらしいのですが、未だに何のためなのか分からずにいます。

私は田舎育ちなので、そんなタイプのトイレでも一向に気になりませんでしたが、ある日仕事から帰ったら、水洗トイレに変わっていたのです。それから小さなお風呂も、ある日突然据付られていました。私はお風呂屋さんが大好きでしたから、自分の家にお風呂がなくても何も不自由は感じなかったのですが、吹田おばあさんは"自分の所に来た外人さん"のためにとても気を遣い、それ以上にたくさんのお金を使ってくれたのです。

吹田おばあさんはその時たぶん70歳と80歳の間だったと思います。外国に行ったことなどなく、外人と身近に暮らし、話をしこともなかったことでしょう。後で知ったことですが、おばあさんはひらがなと簡単な漢字の読み書きはできますが、新聞や本など読めなかったのです。そんな吹田おばあさんから私はなんと多くのことを学んだことでしょう。

まず、台所用品の名前に始まり、大阪風の挨拶、「オオキニ」「まけてんかー」「もうかりまっか」というとても実用的な言葉などを教わったのです。これを覚えてから毎日、仕事、学校の帰り道、吹田商店街での買い物が楽しくなり、かつ安上がりになったのです。

ある日、おばあさんは男物の古い靴を持ってきて玄関に私の靴と並べました。何でも悪い個別訪問のセールスマンがいるので、この家にはオトコがチャント住んでいるということを示すためのようでした。男物の靴が、お便所の前に下げた魚の頭と同じくらい効果があったかどうか、科学的統計で証明することはできませんでしたが。

その冬、私が酷い風邪をひいたとき、吹田おばあさんは大きなカップにクリーム色をした温かい飲み物を持ってきてくれました。「サー、これをグッと飲めば風邪なんかすぐに治る」と確信に満ちた笑顔でカップを手渡してくれたのです。カップを口に近づけると、強烈なアルコールの臭いが鼻を突きました。

私はアメリカ中西部の保守的な家庭で育ったので、それまでアルコール類を飲んだことがありませんでした。吹田おばあさんは満足そうにうなずき「サーサー 飲んで、飲んで」と催促する表情なのです。私としては、飲まないわけにはいきません。それが、初めての"玉子酒"の洗礼でした。そのむせ返るような味は風邪で熱を出して死んだ方がマシのようなものでしたが、その効果のせいか、毎日買って帰り、食べ続けたおいしいみかんのせいか、二度と風邪はひきませんでした。

 

 

第20回:初めての日本 その2